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母衣月岬 2019/07/22 [東奥沿海日誌]

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扨浜伝へ少し行て、イカミ坂。峨々たる岩岬也。此崎を母衣月岬と云。また下るかたを、七曲坂。と云也。下りて此処をば、舎利浜。と云。此処浜形一湾をなして小石浜にして甚奇麗なり。又此浜より舎利石と云もの出る。土人の云に此海湾に舎利母石と云有りと。并て、
舎利石。小なるは粟粒より米粒位成もの也。又稀には小豆粒位のものも有ども至て少し。透明たる事本邦之に類するものなし。又国守よりおりに之を拾はしむるよし閲り。余も五、六十粒程所持せり。土人之を抹香の中に接置て増るよし等浮屠氏の妄説を伝へたり。
母衣月村。人家四十軒斗。漁者のみ也。人家も甲辰の時よりは又去年通りし時甚美敷なるとか。桧山多くして家柄至て富栄へるよし也。又此湾深くして船澗によろし。故に往来の船も此処に多く暫くよく、小商人有。
母衣月村。人家四十軒斗。漁者のみ也。人家も甲辰の時よりは又去年通りし時甚美敷なるとか。桧山多くして家柄至て富栄へるよし也。又此湾深くして船澗によろし。故に往来の船も此処に多く暫くよく、小商人有。

鬼泊 2019/07/21 [東奥沿海日誌]

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さて浜道、小石原暫く行て、今別村。従三馬屋一り。人家六十軒斗。此処浜形北向にして船澗少し有。又小商人等有。随分宜敷村也。入口に川有。土橋を渡す。側正行寺と云一向宗の寺有。此住持名台巌号鶴汀。少し文字も有故、立寄し処是非と申て泊りけるが、今一日と申て滞留致しける。
今別石。世に津軽瑪瑙と云也。此浜満面此石也。中に含水石有よし聞けり。又此村の風として、七月には先祖の墓所に此石を多く持来りて其囲りに寄り。故に寺の墓所は一面此石にて甚美事也。我浜に出て此石を拾わんと云たれば、坊主の申けるに其より墓所にて拾がよしと申ける故に墓所へ行て其面地、光沢を輝せしに甚驚たりける。
四日。出立。扨此村内に又浄土寺一軒有。此寺は典転和尚の住せられし処也とて参詣致しける。又上に、御仮屋。奉行一人、目付一人、足軽等出張する由。町を下に下りて、川有。板橋をわたりて、一本木村。従今別村五丁といへども、唯川一すじを隔るのみ也。小商人有。人家凡三十軒斗。又此村より左右に道有。右は本道、田の中を行也。左り浜通りにて先にて行合。此浜岸を行ば大に近し。故に歩行のものは皆浜通りを行也。此処皆海岸にて柴にて垣を結へり。田に浜風のあたらざる様なるべし。
扨此処田道は凡二十丁も有べし。此奥に大河内村と云有。人家凡百軒斗と聞り。唯街道よりみるまゝなれば委細にしるさず。又田道本道を行ば、 山崎村。平山の上に一条の町有。人家三十軒斗也。商人も何もなく漁、農入接り。又此辺桧山多き故に山に入て材木を切出す也。扨此処にて浜道と出合、村を下り小石浜七、八丁も行て、
鬼泊り。此処に高三丈位幅二条斗の石門有。其形実に海中の奇観とも云べし。土人昔し此処に鬼が住しより此名有といへり。又浜通り七、八丁も行て坂に上り桧山にして昼もくらき程の処也。三、四曲上り行直に下り、大泊村。此処鬼泊り崎、母衣月崎との間にて一小湾をなし、海深くして船澗よろし。又人家三十軒斗。皆漁者にして少し斗畑に野菜を耕せり。此節皆桧山にして、甚繁茂しける也。




三厩 2019/07/20 [東奥沿海日誌]

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又赤はしりと云岩有し、めの子走りの事、塩の引を待て行かよふところなれば、 袖ぬるゝ恋路もかくやあら磯の休みのひま行岩の陰道 藤しま、釜の沢の辺り岩より岩に丸木橋渡せるも危げ也 下略 扨浜つたい岩いそをしばらく行て、藤島村。人家七、八軒。皆漁師也。此処にて大根畑を少し見ける。扨立出て、人形石。其形薪負へる人の形の如し。また浜路しばらく行て、六条澗。人家落々として凡八、九軒もあるべし。此処岩の小き、海岸に多し。上は皆桧山つゞき也。此海岸に昆布多くよりたり。其幅一丈位。大なるは長八、九尺の品有。皆より昆布也。小岬を回りて、算用石。小泊カタカリ石か。此処へ山越道四り半と云り。甚難所のよしきけり。また小石ゴロタ浜を暫らく行て、兜岩。源廷尉の兜此処にて岩に化せしと。大さ二十間位。又浜を少し行て、中浜村。此処に小商人、漁者入交り。人家皆美々敷建たり。是よりして年貢等相納るよし。是迄の小村五ヶ村は夷人の子孫也とて領主へ年貢を納る事なし。人家五十軒斗。扨此処に一種の遊女有是を後家と云。入津風待の船に至て枕を替して生業とす。一夜六百文より金二朱位也。扨其後家一種の名有。先其一、二を印さば鯨後家、狼後家等也。其故は括槍を刺す時は鯨の吼るが如し。又春情域に枕て掻むしる等をもて皆字して云伝る事也。又此浜より矢の根石出るよし聞り。扨はま伝へしばらくにして、 三馬屋岩。大さ、高五丈、幅七、八丈位の岩に下に穴二つ有。元来三つ有しが今は寄る波浪にて打砕て二つと成しと。石質甚和らかにして少し赤也。此処に源廷尉馬を繋ぎ置て、蝦夷が島へ渡り給へしと等と俗説を申伝へけり。扨此処岬を回りて花表有。是より右の山に九折三曲上りて、 竜馬山観音寺。本堂三間四面、十一面観音を安置す。側に庵室有。道心着任す。前に鐘楼并に金毘羅堂有。此処東面して母衣月の岬へ対し、北面せば松前吉岡の湾に対し、西南には升ヶ岳を帯て松の樹磯風の馴て枝振奇をなし、実に梵音海潮音と説給へしも実にやと思はる。

龍飛岬 2019/07/18 [東奥沿海日誌]

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二十九日。曇り。小舟に乗て扨此辺を一見せんと乗出したる処、朝満(潮)の時ならば汐も甚穏なりけるが、岩壁伝へ五、六丁にして、竜飛岬。則此岬北へさしたる岬にて西南燕岬と対峙して、東は松前白神岬と対岐す。並て少し海中に、汐の口。此辺潮の起り口にして暗礁多し。又並て、弁天島。大岩島。上に岩の祠有。又並六、七十間も隔て、帯解島。此島にて義経公帯を解て松前へ越し給へしと申伝へける。又並て、バクチ石。姥口石と云成るべしか。其形姥口の如きよりして号るなるべし。
扨是より船を雇てウテツ迄行んとせしに、幸に彼村に便船有とて乗せ呉けるが、少し雨降来て船中苫を冠て巌壁伝へ六、七丁行と、岩岬一つこえて、
ゲンビノ澗。此処澗と云程にもあらず。只少しの岩蔭にして海深し。此上に桧山有。前に瀑布一条有。ヨロイシマ。大岩島。源廷尉の鎧化て岩に成よしを云伝へける。又岸壁暫く伝へ行て、ヒヨロ。此処又峨々たる岩壁岬。総て此上皆桧山にして米家の画の如し。
扨此処桧としるし置とも、紀州の熊野山又信州木曽等より出る桧にあらじ。是は桧葉と云て別種也とぞ云る人有けるが、余が按ずるには此辺の山総て岩山にし、山せ雪深くして、枝と見置くる故に如此に不宜木質なりしと。ふし多くして其品至て下品なりける。
扨此岬を回りて又岩壁伝へ暫く行、カワシラ。此処一湾になりたり。また此山の沢を、ナルカミ。此処山神の社有と云り。また此山つゞきに、シルカヨ。此辺桧山つゞき。大岩石峨々と聳えたり。又此湾の前に、
地蔵島。小く立たる岩石也。其形にて号か。並て、ヤマセトマリ。山せ風にかゝり澗宜しければ号るなるべし。又小岩岬をまわりて、
マサカトマリ。峨々たる岩岬。此岬北はカワシラ浦。南はウラツ岬と対峙す。並て、ホカケ石。大岩なり。此処回りて内の方は海深くして船澗よろし。松前渡海船冬分は爰にて風待をする也。
宇鉄村。従竜飛岬二り。又此間風荒き時は、礮台より此処へ山越有よし。しかし甚難所にして通りがたしと。屈曲たる坂道斗を数度越て此処へ来ると。総て此辺桧山也。人家八軒。漁者のみ也。此処へ上陸して先人家に立寄て着類をあぶり干て焼飯を食ける。
扨此村は皆夷人の子孫にて、凡凡七、八十年前は口髭を生し、耳がねを懸たりと申しけるに、此辺にては決て是を秘して人に語る事無りしと。又家に太刀又は行器の類も有といへども中々人にみする事をせざりしと。

燕岬 2019/07/17 [東奥沿海日誌]

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赤裸で海に飛び込み燕岬を確かめる
甚平岬から白糸滝を経て、次の岬に回り込むとそこが燕岬のようであったので、赤裸になって海に飛び込み確かめた。岩穴には燕数百群がいて燕岬であることを確認した。海上から磯舟がやってきて、誰何された。「我は伊勢の国の修行者で、この燕岬を一見に来た」と答えたところ、「命知らずの旅人だ」とあきれた離れていった。

峨々たる大岩岬有。甚平岬。と云。此岬は高五丈位の岩岬也。是を燕岬かと思て見回りたれども其様なる岩窟もなければ、上によぢ上りて越けるに風波荒くて少の荷物に当る風実に今にも我が身を吹飛さん様にぞ有ける。
又山の端を薄苅芽の根に足を踏留て行事二、三丁にして又海岸へ下りけるに、白糸滝。幅六、七尺、高二丈五、六尺位にして一枚の岩壁に懸りたり。眺望甚見事也。扨是より又浜伝へ行事六、七丁にして路筋一向不分して如何はすべしとみたる処が、大岩石の側に又一つの穴有。定て是なりと思ふて赤裸と成て此岩穴より海に飛込みみたれば中に燕数百群居けり。
扨其より愈是ぞ所云彼燕岬なりとし、荷物の用意し布と犢鼻褌を結び合せて上に引上、又此岩石の蔭の方へ此布にてつり下、岩角に取つけて下る用意して、先一安堵と焼飯を食て立出けるが、扨又二、三丁斗岩の上を飛越行に、早そろそろ行べき方なき様なる処に来り、最早此処にては八つ半過と思はるゝに、気は甚急ぎ如何はせんと思ふまゝ行に、海上より磯船一艘大音上て我方に漕来りける故、何事成と立留りみければ、岸に来り何国に行人也と云によりて、我は伊勢の国の修行者なるが此海岸を回らんと此燕岬を一見に来と云ければ、扨それこそ命しらざる旅人哉と云て舟を出しけるに、其処の道を問て此岩岬を又越、是より竜飛迄は何程ぞと間たれば今一里半も有べしといふて別れけり。
又行まゝ大岩石三、四つ越て、マツカ石。と云に至り此処を越て獅子飛とも云べき一方は岩壁、一方は底深き海岸を越て竜飛の方をみやるに、又行先遠くして如何せん、是より帰るにも遅く行にも遅し、今夕は此岩浜に一宿する事なるべしと思て行けるが、又一小岬を回れば凡十丁も向に白洲浜少しみへたれば、また一度悦びて行ば則、ホロナイといへる処也。
扨我行をみて十才斗の子供二人程岩陰に隠れけるが、よくみれば此処に丸小屋一軒有。扨我行を見て男ども二人程立出、我に向ひ甚驚る有様にて、我を変化ものか又は役の行者の再来の如く尊敬して我前に蹲踞り、それより竜飛岬へは是より何程なりと道を尋し処、今一里少し斗と申ける故、是より案内を頼度よし申ければ、忽に請合て我少しの荷物を負て行けるまゝ、凡七、八丁斗浜道を行、又岩道の細きに来る。これを白ハシリ。と云。此処をこへて、屏風岩。数十丈の高岩立たり。此側を通行て坂に上る。実に天下の奇観也。早此辺にては日も西山に傾きて甚心細けれども、案内の有に任せて是より、ヲリト坂。と云に上る。此坂凡七、八丁くらい、九折凡七、八曲も有。樹木なく平山にしてよく燕岬の方もみへければ上りつめて、礮台。五十目筒、三十目筒とを相備。囲に柵を結たり。此処へ上りみしに最早ホロ内等はくらく成て、立寄し漁屋も何くともみへ分らざるに、松前の方は未だ地蔵岳、白神岳の蜂に至少し晩睴帯る様にて案内のものに指図して教けるに其処らも分明にみへける。



脇本から小泊へ 2019/07/16 [東奥沿海日誌]

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武四郎は上掲図の波打ち際を歩いて行く。歩いた道、見た風物を体にしみこませ、それを挿絵として描いた。彼は鳥瞰図法にすぐれており、もし外洋から見たら、このようなものになるのではないかとしている。これが荒唐無稽なものであれば何の意味もないが、いろんな方法で確かめてみると真実に近い、的を射たものになっている。武四郎は探検家としての実績だけでなく、挿絵画家としてすばらしい作品を残したのである。
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ここから津軽後半となる。9月26日、脇本を出て、小泊に至る。27日、28日と敢えて通行困難な岬周りに挑戦する。燕岬を是非とも見たいと思ったからである。
下前村では、卵を決して食べないという珍しい習俗を取材。経島、立岩を経て小泊湊に着く。磯伝いに、七ツ石、青石、塩釜、ヤカタ石を確認した。
扨脇本を出て坂の上り口より海岸通り五、六丁斗行て、道愈難所にして大石兀々として甚難所なるが、凡十二、三丁にして、下前村。従脇本半里。人家五十軒斗。此処田畑一畝もなく土地面南向。海に枕み後の方赤兀岩山に靠り、人家は皆高低に建並たり。水不自由、少し旱つゞく時は呑水も無と云処也。皆漁者にして至富り。扨此村を出て、山の岸伝へ桟道様の処を行事、凡十四、五丁ばかりもすぎて、権現崎。此処の岬、海中に突出して東燕崎と対し、西アシケ沢の常灯岬と対峙す。岬の上松、桧、杉、雑木繁茂して甚神寂たる処也。又此処に小祠有。下前村の氏神也。何神を祭るやらんしらず。甚玉子を忌て、此村にて食事を不許。又此岬を回て越る事を禁ずる也。扨岬の下のかたに、赤石。海中に突出しけり。則色赤より号る。又並て、経島。字の如し。此島に経文石といふもの有。其石面に梵字の形顕るゝといへり。いか成事ぞ。又並て、立岩。字の如し。
扨此処岬を回りて同じき桟道並ゴロタ石造を行に、岩石峨々として甚難所也。二十丁斗にて着しける。
小泊湊。従十三浦三里といへども少し遠き様覚ゆ。権現崎へ回らば四里も有べし。浜形西北向にして東は燕岬、西権現崎にて一湾をなし、其内に在也。海岸暗礁有。船澗、一船は懸るによろしけれども、大船は入がたし。錠(碇)懸りよろし。人家三百軒。酒造屋、問屋、小商人、漁者、船方等皆交て住居せり。寺院二ヶ寺。氏神社有。然れども名を忘却せし故に誌さず。此処松前行春船は至てよろし。海上九里、運賃一人前金二朱。
土産。昆布 鱈 塩 桧材 比目魚 鯛 蚫 海亀 藻魚 鮹 カスベ 牛其外雑魚何によらず多し。又田地も有故に畑田作物ともによろし。総て当所より上るもの七十七品有とぞ。中にも別て他に勝れしものは牛を第一とす。扨山椒に一種別なる有。其実三つ俣につけり。又別に、梵字石。経ヶしまより出る経文の形とも云り。しかし是は我みざりけり。村長河村某、隠居号北洞舎、此人種々の奇石を貯ける故一見を乞たれども、留守にて不果けり。
二十七日。扨当村にも先年は蝦夷人が任せし跡成とて、砦の跡様なるもの三ヶ所有。其名を古老のものに尋るに古来よりして蝦夷館とのみ称して、誰と申事もしらざれども、その名はこの村の筆に有るを小泊より三丁余山に入字、鍵掛。勘ヶ(解)由海辺にて字、柿沢、多門上同砂石兵部と皆百官名を附たり。故に案るに強て毛人にもあらざるやに思はれけるが、皆其些(砦)跡よりは矢の根石僻(霹)歴砧、雷斧石等を堀得る事まゝ有。又陶器の類も出る事有也。
二十八日。晴。小春模様にて快晴しければ出立せんと云を、此辺は皆当日は新糯米を用て餅を家毎に搗て祝よし。是は是非今一日滞留せらるべしと勧けれども、愈時候も後れける故に出立しけるが、燕岬へは決て通る事なし。直にサンヤウシ越るがよろしかるべしと皆申ける。扨村を出離れて、川。有。此上の方皆田也。田の岸には柴にて垣を結へり。是に添てしばらく行と、ウチコシ内。山際也。是より海岸、ゴロタ石也。崩砂の処有。是より矢の根石出る。海岸岩伝凡十七、八丁も行、七ツ石。有。此辺左り海岸。岩磯暗礁多く、右峨々たる絶壁にして其下を行も恐敷斗の処也。又暫く行て石七つ程有故に号。青石。大なる青岩一ツ海中に有。此岬を回て山に添て暫にして、シヲヘナイ。此処小湾にして上に田少し有。又海岸に小流有。澗に塩かま有。年中此処にて汐を汲て塩を焼なり。その仕方一向世話のなき様成ものなれども、薪は至て沢山に入るよし聞り。焼方は備前辺にて焼様なもの也。又汐を汲は海中に櫓をかまひ、是に汲入トウユ(樋)にて竃に来る様となす也。其仕方至簡なれども、他国にては中々薪に引合がたしと思はるゝ也。又十七、八丁も行又二ヶ処有。
扨此処へ立寄て湯を乞、是より燕岬への道を尋し処、一昨日漁師一人通りしが其後は人も通らざる故に、これは決て止るべしと申けれども、余も一度思し事なれば是非とも行んと云しに、強て人々の止る故に先此度は止まるべしと云て立出けり。扨海岸添右は峨々たる岩山、左小石浜半里行て、ヤカタ石。高二丈位の大立岩一つ海岸に突出せり。むかし夷人の合戦の時、此石を館様の立て居られしと思て退たりと伝けり。また二十丁も行て、七ツ滝。此滝幅は纔三尺位なれども、水勢甚くしてみ事也。此下より見る時は三段にみゆる也。海へ乗出してみる時は七段に分ると云り。又同敷道十丁斗を行て、カタガリ石。大岩の立に数囲の丸岩一つ入る也。今にも落かゝる斗の様也けり。先譬て申さば長崎の鯖くさらしの如し。扨又三、四丁も行て、藤島越道。またシヤウ石越とも云り。是より右の沢に上りゆく也。
この道は村継の御用書并役人等も、又松前内の旅人等も往来せり。殊に寛政度石川左近将監殿も此山を越給へしと。故に余は人の留(止)るをも不用して、扨此処より海岸小石原を暫行て山の半腹に上りけるにこゝを、カヨベ。と云て唯事草の根に足を留る斗にして道と云ものもなく、又風荒く北西より吹来て笠もいつか吹飛、杖も早打捨、岩角、草の根に取すがりて行に、凡此一歩を過たば千尋の海底にも沈むべき処を二十丁も行て又海岸に下けるが、小石原に人足の跡の彼処に残るを便として行事凡そ七、八丁徐にしてスビヤマ。と云に至る。小流有。扨此辺は岩磯つゞき。扨又大岩の上を越、またはね越て行事凡十四、五丁と思ふ頃小き岬有。これをヨコトマリ。と云よし。此処海探し。此上には昆布取の住荒したる小屋有て、如此ものをみるに付ても尚寂気を生じけり。
扨行まゝ凡四ツ半過也。又小山に上りては越、又浜に出ては人足の有や無やと枝折と思ふて行に、処々小き滝も見侍りしが、筆記すべき思出もなく、又行につぎて峨々たる大岩岬有。甚平岬。と云。此岬は高五丈位の岩岬也。是を燕岬かと思て見回りたれども其様なる岩窟もなければ、上によぢ上りて越けるに風波荒くて少の荷物に当る風実に今にも我が身を吹飛さん様にぞ有ける。




十三浦 2019/07/15 [東奥沿海日誌]

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鰺ヶ沢から七里半で十三浦。海岸は砂地なので碇を掛けることができない。上に十三湖。岩木川から流れ入る。海辺では鰯や鰰、湖では八目鰻やぼらが獲れる。
このあたりでは夜具代わりに十三湖の藻を干して編んだコモが使われている。
十三浦。従鰺ヶ沢七里半。新田通り十里位也。従舞戸村長浜の間は七里也。此処浜形北西向。東権現岬、西鯵ヶ沢岬と対峙して一湾をなすの内也。海岸皆沙地にして碇懸り不宜。人家三百軒斗。一条の街をなし農戸、漁担、商家の交りにして繁花の処也。上に、 潟。有。長七里。幅二里半三里位にして国中に距る。此潟の上は岩木川より流入る。并領内中の小流皆末流は爰に至る也。其形前に図する如し。  土産 鰯 鰰 比目魚 鮹 カスベ 其外雑魚多し。  但し右の分は海辺にてなり。又  八ツ目鰻 鰌魚 いな ぼら 鮒 小海老等、是は潟にて取る也。因にしるし置もの也。 扨寺院三ヶ寺、氏神等有しが、名を忘れし故にしるさず。又此川にも番所一軒有。入津の船改をす。旅人此処より船上りをすると百五十文づゝとらゝる事也。春分は松前渡海風順よろし。松前へ十里。江差へ二十三里。船貸代一人前金二朱。
扨爰に一つの談有。此処に一宿せし処、其夜は弘前より役人の五、六人も此浦に来し由にて、村中一向に夜具が無き由申けり。扨夫より亭主の申けるには、御客様甚気の毒なれども今宵は何卒夜具が無き故に、コモと申ものを着て御休被成様に願度由申によりて、決て心配はなし、長の道中如何様のものにても着てねるべし、と申ければ、則出し来るをみるに此十三潟の藻を取て能く干し、細き縄にて永〔長〕六尺幅五尺位に俵筵の如くあみしもの也。扨是を着たる処ゴソ〳〵として甚寝心地不宜といへども、終日浜風に吹れて草臥し事故に、唯一睡に長の夜を明しけれ。扨其翌朝右のコモの話しを聞し処、至て疝気腰気の薬也とぞ咄しける。惣て此村より又此在通り皆此コモを用ゆると聞り。



七里長浜 2019/07/14 [東奥沿海日誌]

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鰺ヶ沢から北進すれば、七里長浜にかかる。人の気配のない浜の波打ち際を歩いて行く。吹雪で度々死人の出た所だ。草の根が固まって、よく燃えるカシというものがあった。火の付いたカシに手をかざして暖をとり昼食とした。清水を汲んで呑もうとしたが、筧からは氷柱が垂れていて呑めなかった。
トズラ原、出来島村、老松村、亀ヶ岡村、とうき村。亀ヶ岡は瓶ヶ岡、とうきは陶器であろう。このあたりで匕目(さじめ)のある焼き物が出土する。

此村を出離て海岸三、四丁斗も行ば、小石浜。路甚宜し。此辺鉄砂少し有。楯、と云処有。此処赤壁にして少し浪荒き時は波浪岸に打当て歩行成難し。其高凡二十余丈と思はる。此下を五、六丁も行、又砂浜に出て二、三丁斗にして流有り。川。此処汐干る時は海岸を渡るに宜処也。両岸蘆葦多し。汐滞る時は二、三丁も川上へ上りて橋有。凡七、八間斗も有。是より右の方新田通り。左り海岸通り。扨是より海岸を行には少し浪荒き時は中々通りがたく、又冬分は七里の間唯一軒の家も無き故に昼休の場所もなし。其故に古来より吹雪等にて度々死人も有よし聞り。唯風景とても無、右の山は平山にして漠々たる砂地に小草の生たるまゝ、左の海は岩屋一つもなく、東は権現岬、右は鯵ヶ沢迄日に障るものなし。一大湾をなして、少しの眺望も無き事也。凡そ四ツ過と思ふ頃に一つの大なる土くれ〈此地にてカシと云り〉に火を付て燃しける有。定て是は往来の人の煙草火に致し有かと思はるが、其後、乙巳の秋此処通りしにも、此土くれに付し火、去年に異成事なくクス〳〵と燃上り居たり。総て此辺の土は草の根の堅りしものなると見えて至てよく燃るもの也。扨此処にて少し手を温めて焼飯を食て又行に、四ツ半頃に清水の有処に至りけるに、此水氷て中々呑事成がたし。竹の樋を以て筧と致したるに、氷柱と成て呑がたし。・・・ 蘆葦老茂りたる処を少し行て田有。此側より山に上る。平山にして樹木なし。是を二十丁も上りて並松有。是を、トヅラ原と云。是より右は御所河原、金木、イタヤノ木道。左りへ野道を少し行ば畑有。暫らくにして、出来島村。人家三十軒斗。畑、田有。樹木少し。故にカシを薪の代りに用ゆ。老松村。前に同。並て、亀ヶ岡村。おそらくは瓶ヶ岡成べし。此辺古き陶器出るなり。・・・ とうき村。陶器坂なるべし。亀ヶ岡、とうき坂の間の坂より、冬よりイテ解の後に種々の瓶出る也。皆白焼手造りに匕目有。上方にて行基焼ともいふべきものなり。土質不宜といへども其品は甚珍敷もの有


鰺ヶ沢-2 2019/07/13 [東奥沿海日誌]

前項は鰺ヶ沢の街の大略紹介であった。今までの例でいくと、これで次の所へ移動していくのであるが、彼にとって鰺ヶ沢は特別な意味があった。
蝦夷地探検を志していた彼の計画ではここから渡航するつもりであった。が、諸般の事情でそれは来年のこととした。地誌的な記述が日記体にかわる。

扨是にて鰺ヶ沢市町の順路は荒増にしるせしが、是より十三、小泊の方へ行は、甲辰九月此処を出立せし日記を其まゝにしるし置もの也。既に其書綴り様は今迄の様とは少しく異にするもの也。

9月12日。松前渡海についてあちこち相談し、世話を受ける。
13日。船問屋も懇ろに世話をしてくれたが、時節が遅いので来春にしては、と勧めてくれる。
14~17日。14日、岩城山は6合目まで白かったが、翌日には麓から雪に埋もれていた。17日には鰺ヶ沢の街も積雪3、4寸となった。
18日、役所から呼び出しがあり取り調べを受ける。高野何某の破牢事件があり、それとの関連が疑われた。19日も呼び出された。21日になって嫌疑が晴れて御免となったが、長い滞留は許されず早々の出立を申しつけられた。24日、諸友人に暇を告げて、25日曇り空の中、北に向かって出立した。

九月十二日。晴。弘前在吉岡村を出立して七ツ過に当所に着しける。故に先達笹森大神号江山と申ける医師の宅を尋て、松前渡海の事等談じけるに同所松本寿庵、来性寺、願行寺、森山何某等も尋来り、種々と渡海の世話致し呉ける。
十三日。天気宜しき故に市中見物。船問屋村上又兵衛宅に行。同問屋菊屋某、塩屋某等も懇に世話し呉らる。然れども少し時節も後れし故に来春にては如何。皆越年を勧ける。
 十四日。雨天。朝起出て南をみたれば、岩城山は六合目より上白く成たり。海辺に出れば浪の勢も昨日に異り厳敷なりける。
 十五日。同じく雨。岩城山、麓より最早雪に埋れける。是にては来春にも可致と定たり。
 十六日。同。昼過より霽上り、雪と成、夜に入て甚厳し。
 十七日。雪三、四寸積る。
 十八日。大雪七八寸も積て寒気甚増ける。今日我滞留を訪て舘所より呼出しに相成、警衛の者七人程にて名主宅へ行、何れの番所より入来りしや出盛等を相改。後に聞く処江都にて高野何某が破牢の騒にての事也と、笹森何某申聞らる。
 十九日。雪八九寸も降しなれども、夕方雨と変りて皆消融ぬ。少し寒気もゆるみける様覚へ、又今夜も名主宅へ呼出されけり。
 二十日。天気よろし。雪解ける。然ども岩城山は最早白くなりしまゝなりける。
 二十一日。朝名主より又呼に来り、今旦高野何某にては無のと申す沙汰に相極りける。宿所糺は御免に相成りし。しかし長く滞留致難しとて早々出立を申付ける。
二十二日。森山何某、笹森其外諸友人より贈詩を送り来りける。事煩しければしるさず。 扨其後も此村には五度程行たれども、少も志の異る事なくいと丁寧に諸友人も世話致し呉ける。丙午の春蝦夷地へ渡海の時も此処より上船し、海岸迄笹森老人見送り来られしに、翌春黄泉の客と成て帰路の頃は只名のみ石の前に黙して、彼土の風土をも語る事を得ず。香花を余波とせしも残念なるべし。
扨此老人の作意も数多見侍りしが、此土の事に管りし作一、二を爰に誌して後の思出となすもの也。
〈漢詩の贈答省略〉等則因にしるし置もの也。
二十三日。
二十四日。愈明日は出立し来春に成てより渡来致すべしと定て諸友人に暇を告てとも用意致しける。
二十五日。扨今日も少し曇りけれども、此節より来春二月頃迄は何の年にても如此一日として皆晴の日は無ときけば出立しけるに・・・







鰺ヶ沢-1 2019/07/12 [東奥沿海日誌]

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鰺ヶ沢は東奥沿海の重要ポイントだ。6回の蝦夷地渡航のうち初め3回の武四郎の足取りは下掲図のようになるが、鰺ヶ沢が彼にとって大事な蝦夷地への窓口となっていることが分かる。
このところではまず鰺ヶ沢の街の紹介をし、その後、初めての沿海の折、どのようにこの街とかかわったかを日誌で記していく。
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鰺ヶ沢の街の紹介。まず蝦夷地への窓口になっていることを述べ、舟町、荒町、新地町、浜町と紹介。寺も法善寺等を紹介する。一丁目から四丁目まで船荷の問屋や船宿が続く。細かくは二度手間になるので、続きは本文(一部割愛)で。
鰺ヶ沢。従赤石村一里。従深浦九里。従弘前九里。地形海中に突出したる岬にして二面とも人家建連り、其登熢の岬より内は浜形東面にして此処に諸国の回船を繋ぐ。人家千軒とも云る地也。当封内二ヶ所の大湊也。従是松前へ十八里。江差へ二十六里といへり。船賃一人前百疋づゝ也。先此入口升形を入て、舟町。町長凡二丁斗。小商人のみ也。又鍛冶屋、舟大工等有る也。並て、
荒町。同じく又左右に裏町有。左りを裏町と云。右は新地町。此処遊女町にして青楼十四、五軒有。側に稲荷社、美々敷建り。小流越て、浜町。表裏に町有。人家立並て随分宜しき処なり。法善寺、法華宗にて小寺也。並て来性寺。一向宗也。又並て、願行寺、一向宗。又並て、報恩寺、浄土宗也。少し行て出岬有。これを常灯と云。入津軽の船より少づゝの運上を取、それにて永代常夜灯となして、往来の船の便りをなす也。扨是より岬を内へ入て則家並愈宜しく成ける。是を一丁目と云。船問屋、商売等多く住して繁花の処也。又船番所有。片側町也。少し行て、八幡社。一丁め、二丁めの間に有。朱の花表を立て是より石階段百余を上る。扨神主を工藤因幡と云。此上を天童山と号る也。又此処を少し行て、二丁目。前に同じき片側町。問屋、船宿のみ也。
船澗、此処一丁め、二丁めの海岸、凡二、三丁めを隔てゝ懸る也。深凡八尋位も有と。海底皆小石のよし。八百石已下は七つ石の方に懸るもよろし。しかし此澗は三月より八月頃迄の澗成べし。冬は風厳敷して中々懸りがたし。
扨当湊には問屋と云もの八軒有に、当時船の来ると云は纔二軒斗也。ともにて他の問屋は生業よくも出来たりと聞たれば、此処は底処、運上は当湊へ入る品もの総高を以、仲間内に配分するよし。其にて当時船の一艘も不来問屋も生業をする事を得たり。如此仕法の処も又他国には無き事ぞ。唯其領主の米を積出す時の世話斗成るべし。又小宿と云もの有。百石已下の船荷の問屋也。之を相勤る家又七、八軒も有也。
三丁目。二丁めにつゞきたり。又並て、俵物改所。此処琴柱、刺俣を飾りて巌敷構たり。此処、出舟の米を改て印形を押也。此事他国に例の無き銭の取様也。又他所よりの揚荷物にも此処にて運上を懸る成べし。
扨其御判と申ものは、時々値段相異りて一様にはなく、世間広しといへども、総て米の安き国もなけれども、かゝる非道の国もなき故に、積出す時は其値段越後米、加賀米同様の値になる事也。其故に羽太君の著せし辺策私弁にも此事を聞給へて、此国にては米の価二つに分り、下民の売買は下値也。上君の館納は貴き値段也。実に此事を案じ置れしも宜成哉。米四斗一俵代、此近年は高価也といへども、纔六百文より八百文、九百文位の事也。それに六百文位の御封銭を懸る時は、船積矢張世間の値段と同じかるべし。余初て甲辰の九月に此地へ入し時は此御封銭と云もの斗成しが、翌年巳年に此地へ行たれば、此邸の入内に一ヶ所の小店を張幕を張、入米改所と云札を懸たり。故に是は如何の事ぞと尋し処、在中より入来る米を改て一俵に付三文づゝ運上を取る事也と云し也。扨其より町内にて聞に之は長くはつゞきは致すまじ。此事を初しは市中の悪党〈江戸にてヲカッピキ、津軽にてメアカシと云也〉日々の家業も不致、下手将棋やむだ話しに日をい□る輩の呑代に如此の事申立して、上へも不聞唯当所の奉行に反物の一反□の巻の五、六把位にて聞済に成しと。又是も大勢の事故に中々三文づゝの運上何くの端へも行届難由申けり。

関村・柳田村・赤石村 2019/07/11 [東奥沿海日誌]

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大戸瀬を過ぎ、鰺ヶ沢が見えてきた。2丁ばかりは平坦路であったが、また岩続きになり、岩岬の先に尾崎明神があった。小祠に花表(=華表=鳥居)が立っている。金井沢を12、3丁行けば関村。柳田村。
岩城山から流れ来る川を渡り、赤石村に着いた。農、漁が入交りちょっとした商店もあり、裕福そうな集落であった。

東北は鯵ヶ沢の灯篭岬に対して左右ともに小湾となせるなるべし。 扨右へ岩坂を上れば二丁斗にして平坦路、野原に出る。此処樹木無して眺望宜し。則鳥居岬の上也。三十余丁行て九折を下り左の岩岬に、尾崎明神社。何れの神を祭るやらん。小祠に花表を立に岩岬の上に立たり。白波社殿の橡瘎を洗ふて風景よろし。扨田道山伝へ三、四丁斗にして、金井沢従田の沢一里余。一条の道也。漁師とてもなけれども、鰰漁の時は皆浜辺へ下りて漁事を致よし。尚、其外雑魚多し。人家五十軒斗。何れも家富栄成様也。此辺浜形西向にして波浪甚少し。しかし転太石浜にして、往来も甚仕悪き故皆陸を通る事也。 扨田道を暫らく行て、 関村。従金井沢凡十二、三丁。人家二十軒斗にして家並前に同じ。甚富るよし。又田道を暫行て、柳田村。人家六、七軒。従関村十丁斗。平山の麓に添て、海浜に枕めり。此村も鰰漁の節は漁猟を致し、平日は農業のみにして甚富る風也。扨平山伝行事暫にして、桜沢村。従柳田村七、八丁。人家五、六軒。農家にして前に同じく折々は鰰漁もするよし。此辺皆砂浜也。村を出て直に、川。有り。幅六十間斗。瀬緩(湲)しかし、深き所は二尋斗も立よし。此川、岩城山の西北より流れ来ると。川ばたに小屋有。船賃、一人前十二文づゝ。扨川を越、葦多き中二、三丁行。田道に出、少しにて、赤石村。従金井沢二里と云り。桜沢よりは只渡し一条を隔るのみ也。人家五十軒斗。農、漁入交り。小商人二、三軒有。皆富るよし。此沢には小村も六、七ヶ村有ときく。 扨村内より左り浜辺に出、砂山を一つ越て海岸に出。扨行事只沙浜を漠々とし、暫くにして道の側に墓所多し。又海辺に人家六、七軒程も有り。是は当所の稼多村也とぞ

轟村から田ノ沢村・大戸瀬へ 2019/07/10 [東奥沿海日誌]

轟村から田ノ沢村・大戸瀬へ

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磯伝いになお北進する。やっと轟村に着いた。自分は初航の帰り11月にこの道を南進し、雨のためにこの村に滞留したことがある。轟村から次の田ノ沢村まであまりに遠いので、途中に一軒茶屋があるが,、草鞋を売るだけのことである。さらに進めば、怪岩、奇石、小流を飛び越え、跳ね越えて行かねばならない。小魚が波間で跳びはねている。岩間伝い暫くで大戸瀬だ。

轟村。人家五十軒斗。商人宿一軒。余乙巳秋此村にて雨にて滞留しけり。坂の上は多く農家にして村中坂を下りては皆漁師也。小商人二軒程有。・・・又浜通りしばらくにして、一軒茶屋、浜辺に立たり。轟村より田の沢の間余り遠き故に、旅人も冬は甚難儀する由にして建屋よし。草鞋を売るのみの事也。・・・ 左りへ海岸伝へ行ば、汐干たる時は種々の怪岩、奇石露れ出、又絶壁にかゝる小流、何れも瀑布をなし、飛越、跳越行に小魚は浪間に飛上る。蚫、海参、小貝類は岩間に簇々として其風景実に目ざましかりし事成しか。此岩間伝へ暫くにしてこゝを大戸瀬と云。

閑話 武四郎はトドロキを「轟」と書いているが、現在ここの字名は「驫木」である。



深浦 2019/07/09 [東奥沿海日誌]

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深浦は良港である。武四郎はそれを「船澗よろし」という。「船澗」とは「船を碇泊するに適した場所」のことである。蝦夷地に渡る機会を狙っていた武四郎であるから、そうした聞き込みもおさおさ怠りない。この港からだと「松前へ海上26里。江差へ直乗36里。船代金100疋」だという。岸近くには暗礁があって危険だが、岸から5、60間位離れると9尋位の深さがあって、千石以上の船が25、6艘位は碇泊できるという。ただ船頭はフナムシの害を恐れるらしい。
人家は300軒位。下町には問屋、旅籠屋、小商人の家が建ち並んでいる。水夫相手の「遊女」情報も聞き取っている。

船澗よろし。是より松前へ海上二十六里。江差へ直乗三十六里。船代金百疋。 船懸澗岸を離るゝ事五、六十間位にて九尋位。暗礁岸近くに有由。千石已上の船凡二十五、六艘位。六、七百石船は五、六十も繋によろしと。しかし、船方どもの話しを聞に、三十日位も此澗に滞留する時は船虫多く船底を刺故に船頭どもも滞留を甚恐る事也。如此事は船頭になくてはしれがたし。 人家凡三百軒斗。上町、下町と分れり。先下町は此湾に枕て、問屋、旅籠屋、小商人ども也。左りへ行橋を越て向町、漁者のみなり。又一種の遊女有。是を姨母(おば)と号す。入津の船頭、水夫に一夜の枕を替して生業とす。一夜代六百文とぞ。



ガンガラ穴 2019/07/08 [東奥沿海日誌]

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大間越番所を通らず間道を行くことにするが、岩の上を飛び越え跳ね越えしなければならない。やっと浜道に出て、黒崎村に着く。鰰(ハタハタ)漁で生計を立てている村だ。松神村も同様。峠を上り下りして海岸に出ると千畳敷のような平磯があり、海中には怪岩、奇石が多い。岸から2、3丁のところに小島があり、そこにガンガラ穴という洞窟が口を開いている。自分は再航の帰り、舟を雇って見学をしたことがある。

此上り口より海岸を回れば、千畳敷斗の平磯有。其外種々の怪岩、奇石多し。小舟雇て回れば余程美事成よし。下りて左りの海中にガンガラ穴。岸を離事二、三丁にて一小島有り。余丁未九月に森山村にて舟を雇て此岸より乗出し、島の西へ回りて大成岩窟有。其口は高三丈斗。幅二文位。柱石を畳重て作れる如く、此内に船を入けるに七、八間も行し処浪打入ては中々すゝみ難し。又松前の蔭にて四方を見るに、大師作とか何とか申すべきを未だ其名を不帯ば、此岸の一徳と云べし。夫より又六、七間入りしが、浪荒く岸に打付て中へ難入、又松明(タイマツ)も浪泡にて消ん斗なりければ、奥をも不見定と返りけるが、此岬にはしけ程岩窟有ときけり。

大間越番所 2019/07/07 [東奥沿海日誌]

秋田領から津軽領へ 大間越番所
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いよいよ沿海日誌の始まりであるが、凡例に述べてあったように、秋田領岩館から鰺ヶ沢まで1回目の旅行の際には内陸をたどり、沿海は2度歩いたが、いずれも鰺ヶ沢→岩館であったので日誌としては書けない。時計回りに書くには「逆に歩いたつもり」の仮想的な書き方にならざるをえない。
岩館番所から大間番所までは山中を行くが、筧を引いた山田の景色は風情があり、峯田楓江が詠んだ詩の如くであった。
大間番所は役人が何人も詰め、柵茂木結い、厳重な構えである。往来の旅人にあれこれの難癖をつけて、銭を出さなくては追い返そうとする。地元の人間はそれが馬鹿らしく間道を利用しているがそれでも三分の一程度の切手代(通行料)を取られる始末。
秋田側の岩館番所も同様であったが、初航の帰り通った時は安くなっていた。津軽側の大間番所も値下げをすれば、上下ともに助かるものを。

貫門柵茂木を結て峠の上に番所を構たり。此処へ弘前より物頭格の侍一人、下役七、八人も来りて往来の旅人より銭を貪る事也。其取方他国に曽て無の風也。先旅人の行を待て国処を聞、何か六ヶ敷申、銭を出さずば此所より追返さんと云斗の風情にて、此所の問屋を以可願とて其町へ遣はすに、問屋へ行けば六十文の判銭、三十二文の袴代を取て切手を出す也。もし又少々ても何事かあれば、一貫文位を袖の下とやら申物を取る事也。余初て此領内へ入る時は錠ヶ関より入りしが、商売の無者は入事を禁ずる様にねだられける故、其夜は彼村にて泊り、亭主に酒など呑せ、種々入用積て二貫文斗とらる。夫故此岡領と隣れる秋田南部の者は皆間道を通る也。故に間道の方至て道能くして在来し易し。案るに如此成し上は、番所結(詰)入用雑費程は、上げ銭も有まじければ領主の損に成べきをや。君国の要(用)に立置番所ならば銭を貴らぬ様に至(敦)して住来の諸人ども此処を通る様に致し度事なり。 扨此秋田岩館番所を乙巳の秋通りし時は六十五文づゝ取しが、其後丁未の六月通りければ二十文づゝ袴代をとりて切手を出しける故に、其訳を村人に聞ば、一人より六十五文づゝ取し時は旅人も皆間道を通りしが、此頃久保田より役人衆の来りてそれにては旅人が難儀を致すと申、二十文づゝに被定し故に、今は一人前二十文づゝに値下に相成由申ける。




凡例を読む-その3 2019/07/06 [東奥沿海日誌]

一、古歌詩文章等古典より抜もの一、二に過ぎず。是我及ばざる故なれば成べし。又却て当時の詠をしるす。是又我意有。初編に誌置が如く、又我友の詩一、二を相見せし人のみのを挙置。是又言葉空しくなるをおしみてなるべし。其様の蕪雑なる事臥遊に備るの意にあらずして、頃年親覦の事多きにして其指要たらしめん事を希てなるべし。
 嘉永三庚戌年玄猪前夕  松浦弘謹誌

武四郎は和歌が好きで、幕末の蝦夷日誌にも明治の旅行日誌にもたくさんの和歌を載せており、自らも日々想うことを和歌に託した。
しかし今回は「古歌詩文章等古典より抜もの一、二に過ぎず。・・・我友の詩一、二を相見せし人のみのを挙置」としている。友の詩一、二は例外とするが、本文に当たってみるとそれは峯田楓江の詩二編であることが分かる。その七言絶句一編は実り豊かな田舎風景を描いている。
 山土墾開依潟泉
 泉筧如糸掛半天
 一田一筧禾方熟
 劇似里南古井田

当時武四郎は楓江の『海外新話』出版に深くかかわり、また自分の三航の蝦夷日誌執筆にも楓江の助けを借りていた。
楓江は文化14年(1817)生まれであるから1歳年長である。天保14 年1843)には、蝦夷地を踏査して、江戸幕府に屯田制や北方警備の必要性を訴えるとともにアヘン戦争について調べ海防の必要を説いて『海外新話』を著した。これが幕府の忌諱に触れ、3年の在獄と三都所払いとされた。

凡例を読む-その2 2019/07/05 [東奥沿海日誌]

凡例を読む-その2
一、此開巻に秋田境岩館より筆を起して鯵ヶ沢へ至る迄は月日をしるさず。是又乙巳の秋二度程通行せしなれども、二度とも此封内より羽州の方へ出るの道なれば、則之を逆にしるして其順路をしるすもの也。其故に一歩としての地を決せざるを要としての事なればなるべし。
一、平内県小湊より土屋村に至るの間は、其街道とするもの在道にして往爽する事故に、乙巳三月の部より抄して此岬椿山の処をしるし置、其欠たるを補はん事しかり。
一、巻中方言を以しるすもの有。是又閲易からざれども一度にせば此地へ探討の土(士)は益と成事多し。文意のさる(ま)拙しといへども、敢て杜撰の徴なき事を誌したるものにはあらず。
一、路次の名所、古跡、神社、仏閣の如き、其往来の傍参詣し見聞たるは挙をけども曽て其余はしるさず。其例青森の寺社の如し。さして大地(寺)古跡にあらざれども参詣を致したるもの総てしるし置。是又鯵ヶ沢の寺院の如く其滞留数旬に及べばなるべし。

凡例5項めで「秋田境岩館より筆を起して鯵ヶ沢へ至る迄は月日をしるさず」としている。署名を「日誌」と名付けて、他の箇所では日付を記しているのに、冒頭の岩館~鰺ヶ沢の部分だけは日付を記さない、というのである。理由は1回目の沿海回りの折には「鰺ヶ沢→岩館」と反時計回りに南進した(それも2回)からだという。当ブログ前項に、「七度の奥州路歩き」のルートを示したが、1回目の分は『自伝』に基づいて記したが、そのようなことは書いてなかった。それはともかく、この部分だけは実際とは逆に記して、時計回りの順路を示した、としている。
「巻中方言を以しるすもの有」というのも大事な事であろう。読みにくいかもしれないけれど、読む人がその地を旅行をすることがあったら、ためになるだろうとしている。
<最後の第九項は次回>

凡例を読む-その1 2019/07/04 [東奥沿海日誌]

凡例を読む-その1
言わずもがなのことであるが、「凡例」とは、編述の目的、編集方針、書中の約束事を記したものである。それは著者によって違ってくる。武四郎が書けば、武四郎のスタンスがみえてくる。
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凡例
一、此編、我八洲を踏歴して、既に蝦夷に及さんと欲して筇を曳、弘化元甲辰九月此地へ到り、既に鯵ヶ沢に船を着て順風を待といへ共、海面愈荒、山岳揮て白を頂き、中々其風土の様南人の目には恐敷と云も余り有故に、先此度は北海岸を探斗(に)して来春渡海せんと定め、此地の沿海を回りし記行にして、敢て津軽一郡を誌せしといへる(に)もあらず。故に蝦夷日誌付録沿海日誌共云んと、即此名を冠らしめ置もの也。其筆記は此地へ入りし事凡七度に及べけれ共其初度を挙て、其余用とすべき事を誌すに及ては、何年何月此処を過し時と皆別に付録し置もの也。
一、此巻首に絵図を置事、是又蝦夷日誌の凡例にしるす如し。編中の各図是に順叙(序)して閲給ふべし。其各部沿海図は羅針を眺望の場と定る事前に同じ。又風景も聊山岳の様を補理する事なし。唯其要を主として也。
一、又此総図内部の村里を誌さず。唯市町五、七ヶ所としるして方位をしらす。是また其沿海のみを誌し置ものなればなるべし。一部といへども当領内に広袤なる事、西秋田領の岩館番所より東北、龍飛岬に距るや凡三十二里余、また南部を回り南境馬門村標柱を距るや三十五里余。其沿海里教にて知り、其米穀の積高にてしれる成べし。又国富、民の豊か成事と、魚蝦の産業は本編に明らか也。
一、天度は奉使記行の内より一、二を抄挙し置。是また蝦夷日誌と同異なるべし。

武四郎は弘化元年(1844)蝦夷地に渡ろうとしたが、高野長英事件のあおりで渡島を果たせなかった。凡例ではこれを表に出さずに北地の海は荒れ、白一色の風土に圧倒されたからだという。来春改めて渡海することを心に決めた。そしてのの字回りに日本海側から太平洋側の沿岸を回ったのであった。
「天度}とは経緯度のこと、武四郎は前期の三航の時は経緯度について詳しいことをあまり知らなかったようであるが、「奉使記行」の情報をもっていたとはさすがである。「奉使記行」とはクルーゼンシュタイン著「奉使日本紀行」のことである。クルーゼンシュタインはすでに蝦夷地のみならず日本の沿海についての経緯度情報をもっていた。
クルーゼンシュタイン(1770-1846)は、エストニア出身のロシア海軍提督であり探検家。ロシアで最初に世界周航(1803-1806)を行った。その目的の一つは日本との交易の確立であったが、長崎での幕府との交渉は不調に終わった。
「津軽沿海之図」
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上掲の図は上が西、下が東になっている。図の出所は今のところ不明であるが、方位・距離等においてかなり不正確である。方位は右上を西、左下を東とすれば、実際に近くなる。当時の彼にはこの程度のものしか入手できなかったのであろう。
現代の地図を示してみよう。


外題の間違い 2019/07/03 [東奥沿海日誌]

外題の間違い
刺激的なタイトルである。今日は書誌上のことをくだくだしく書くので面倒くさければ読み飛ばしてくださってけっこう。要は、4冊の内2冊が外題を示した表紙を綴じ間違えて内容に合わなくなったということである。原稿(稿本)は「多氣志楼蔵」という柱刻を持った特注の原稿用紙(半紙)に書かれている。これを前後から綴る表紙・裏表紙は小豆色蜀江文の厚紙を使っている。虫干しや撮影の時に綴じ糸を解いてバラバラにすることができる。表紙が入れ違ったのはこの段階のことであろうが、武四郎の生前のことか没後のことかも含めて断定はできない。大要はここまで、ここからややこしい説明になる。
稿本『東奥沿海日誌』は、他の文献資料同様、東京松浦家旧蔵、近代文学研究資料館史料館(当時の名称)寄託を経て、今は松浦武四郎記念館の所蔵となっている。重要文化財の指定を受けている。
東京松浦家から寄託を受けることになった史料館の目録には次のように記されている。「120 1」等は史料館のつけた整理番号である。*以降は当ブログ管理人の説明である。
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史料館受託資料 120 1
 外題「東奥沿海日誌 南」
 内題「東奥沿海日誌」
*内容=弘化元年九月~/津軽~十三浦について記す。内題の前に「凡例」があり、津軽について述べるとあり、外題と合わない。末尾に「嘉永三庚戌年玄猪前夕 松浦弘謹誌」とある。「凡例」のあとに「津軽一統志凡例」と「津軽沿海之図」を載せる。
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史料館受託資料 120 2
 外題「東奥沿海日誌 軽」
 内題 なし
*内容=受託資料「120 1」の続きを記す。外題と内題は合っている。以上の二冊で1の外題にかかわらず『東奥沿海日誌 津軽』一巻をなすと思われる。
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史料館受託資料 120 3
 外題「東奥沿海日誌 津」
 内題「東奥沿海日誌 五十瀬 雲津 松浦弘著」
*内容=内題の前に「凡例」があり、南部について述べるとあり、外題と内題が合わない。凡例末尾に「茲嘉永三庚戌孟冬初六此日亥満城鼓声鼕々到耳 松浦弘謹誌」とある。「凡例」のあと「東奥海上郡之図」を載せる。
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史料館受託資料 120 4
 外題「東奥沿海日誌 部」
 内題 なし
*内容=受託資料「120 3」の続きを記し、外題・内題は合う。「3・4」の二冊で3の外題にかかわらず『東奥沿海日誌 南部』一巻をなすと思われる。
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表紙に示された外題を信じて「津軽南部」「南部津軽」等並べては齟齬をきたすので、史料館の整理通り「南軽津部」の順に読まなければならない。

奥州路を踏むこと七度? 2019-07-02 [東奥沿海日誌]

武四郎は私人として3回(前期)、幕吏として3回(後期)蝦夷地を探検している。3回目の蝦夷地探検を終え、江戸の戻ったのは嘉永2年(1849)の末のことで、翌3年は『初航蝦夷日誌』『再航蝦夷日誌』『三航蝦夷日誌』の執筆に数ヶ月を費やし、年末に『鹿角日誌』『壺の碑考(初稿)』、さらには『東奥沿海日誌』を記した。清書等考えると翌4年にかかっていたのではないか。
前期の蝦夷行を振り返って、『東奥沿海日誌』凡例に「奥州路を踏むこと7度に及んだ」と記している。3回の蝦夷地往復で6度となるが、あと1度は弘化元年(1844)の東北の沿海一周である。この年彼は蝦夷地渡航を図ったが、高野長英逃亡事件のあおりで渡航ができず、旅人詮議がきびしくかなえられなかったのである。→http://sada.la.coocan.jp/ta/kouka/kouka.htm
今回取り上げようとしている稿本『東奥沿海日誌』は弘化元年の沿海一周を中心に、あと3航の往復の際に見聞・体験したことを適宜差し挟んでいる。

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心新たに 2019/07/01 [東奥沿海日誌]

心新たに『東奥沿海日誌』 「心新たに」というのは私の思いです
20数年前、道内の武四郎研究者に「道内の問題については道内の研究者が頑張っているので、道外の問題、たとえば九州時代の武四郎とか明治10年代の西日本旅行等については道外の人にがんばってほしいとといわれたことがある。要は九州時代の武四郎・明治10年代の西日本旅行・大台ヶ原三登・大神鏡奉納・天神信仰・古銭古物収集等については地元勢がもっと頑張れ、ということであったかと思う。自分も確かにそうだと思って、2010年から明治20年代の西日本旅行について記した日誌を解読・編集し、これを発行することに努めるようになった。といってもその矢先2011年9月に骨髄の病的骨折を起こして、以来寛解-入退院を繰り返すことになった(老齢のため完治は望めない)ので、一年度一冊以上には頑張ることは出来なくなった。
昨年は武四郎生誕200年・道名命名150年ということで、魅力あるイベントがいくつもあったが、その計画立案に参加できないどころかイベントそのものに参加できず悔しい思いを味わった。しかしそれも常時、病気再発の危険がある身ではしようがないことではあった。昨年1年『鹿角日誌』の解読に努め発行に漕ぎ着けただけでも幸せと思うべきであろう。それが病気に耐える原動力になったのだから。死に直結する病に冒された時、絶望するのではなく、前に目標を立ててそれを目指すのがいかに大事かを悟った次第である。

『鹿角日誌 壺の碑考 付奥州名山図譜』(2019.03.01発行 松浦武四郎記念館)
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『鹿角日誌』の行程を次図に示す。嘉永2年、3回目の蝦夷地探索を終えた武四郎は、いくつかの課題を持って、東北の内陸、野辺地から盛岡を歩いたのであった。執筆の時期は嘉永3年(1850)年末のことで、その後、『東奥沿海日誌』に執筆に取りかかった。
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『甲申日記』本文 [ウオーキングMAP]

『甲申日記』本文
紀伊見村に到る。此処新道出来て形勢大に異なれり。此処は材木出す家多く、また何某とか云豪商有けるが、それ等の家も旅客みちみちたるよし。峠に到り左右の茶やは泊り客早一人もなし。皆朝出せし由なり。下り坂も新古両道峠までは車も多く来り有りしが、其直段の不廉は中々我等が乗らるべきにあらず。我は古道を下る。胡麻生、原田、馬場村等下る。道よろし。爰にて東雲かゝり、
橋本駅に出。此処家毎に提灯を出し、神事祭礼様の如く、其賑はしき事目覚る斗。河原に出て夜の明を待てけるが、渡し船は五六艘にて止み間なく通けるに処々にて篝火をたき小舟多く岸に着たるは、皆加牟呂まで下る船をすゝむるなり。一里の処三銭づゝにて乗り下り行こと弾指の間に橋本〈北岸〉、東家〈南岸〉。二軒茶屋、三軒茶屋も見過し、清水村も薮陰にて不見。西行上人の像を祭れると聞く地蔵堂、西行松、光厳法皇の衣懸桜も今度は拝せず。船中にて旭の昇を拝しける間、早くも学文路村なる東端に上る〈従橋本一里〉。此処別ても繁昌にして家々軒に鬼灯を点し、また一厘饅頭の黄と白とを売る家多し。町の半に物狂石と云有。小堂を道の左りに立たり。爰にて右の方より慈尊院道と出合なり。上に玉屋与治兵衛とて刈萱道心の因縁の者有て、代々臥房をなして有り、今繁昌す。また此処より向の山付に梅天神、また丁田天神等と云二社の天満宮有。社頭頗る美々敷、もとに戻りて坂道。是より人力は行かず。依て西京、浪華より来る人、車と駕とかゆるが故に当所の混雑なること甚し。少々にて左りに、
刈萱堂。本尊親子地蔵。堂宇美々敷建たり。また古画の屏風有て、今日拝させしむ。また刈萱道心の縁起三巻有。其略をこゝにしるし置に、
**「刈萱道心縁起」省略
村つゞきにて重野村に入て大師の硯水と云有。此辺家ごとに傘紙を製す。一状六十枚づゝ有。其はしたを二十枚づゝ一状となして路傍にひさぐなり。峠に到る。是より下り、至て嶮なり。左りの方に産土神、壮麗なり。別当大智山日輪寺、什宝に翁の面有。康治二年五月十五日、竜神是を献ずと。今に到り五月十五日祭礼あり。是より河根村。臥房、茶店十余軒何れも美々敷立たり。此辺に来るや、十三四歳の子供等多く参詣の荷物を持んことを乞。余も十五銭にて雇ふ。是此近在より来るよし。また村中に大行灯を立、家ごとそれぞれの作り物等して有り。中に大なる枇杷の木に熟せし実の付し様に作り有故、何成哉と立寄て見候処、其実は金柑なり。其工夫にも驚しが、其大粒なるにも感ぜしなり。下りて〈従学文路五十丁〉、
千石橋。河根川に架す。また大橋とも云り。長十八間、欄干柱有。寛永年間播磨明石城主再造と聞り。此川紀伊川に入る。源は高野山のうしろより来ると。《脱》村と云一村あり。過て直に坂に懸る。高野両社垂迹の処有。左り山の崖、左り谷合也。是作水村と云。西郷の出村なり。上り??て桜茶屋。人家三軒何れも茶店なり。桜多き故号く。また八幡社有。上りて近頃赤穂の家来敵打をなせし処有。山の峰まゝをしばしにて〈従河根村五十丁〉、地蔵堂。七本桜等有。是より馬道、九度山村に有るなり。
神谷辻。人家五十余戸。深谷に枕みて石を築て木を架して屋を建る。此村入口に慈尊院、槇尾道有。是より高野山を望むに風景実によろし。また花屋市兵衛といへる有。昔しは造酒家にて有しと。冷泉宗家卿より歌等賜はりしとなり。右大神宮社有。左りに大師加持水有。少々山畑の道を過て麓にかゝる。応其松等有。卒塔婆木、左りの谷に有。山にそえ右なる谷の上を行ことしばし。四寸岩また蟻関とも云。此岩凹にして纔に人を通ず。中に長さ四寸斗の足跡に似たるもの一所あり。往来の人ごとに隻脚をかけざれば上りがたきが故に、世人伝えて親の足跡を踏と云。馬など通ふは別に上道有りしを、今は大く作りて卯年参詣せし頃とは大によく成たり。処々桟有て難所なりしが、今度は道甚よくなりしなり。不動橋。此川則千仞ヶ岳の下なる川すじ。手前に石地蔵、向に銅地蔵尊有。総て此道を不動坂口と云。また桜多し。処々に少し色を持たる木有。此山往古より斧を入れざりしが故に古栢、老杉蔚々として錐を立べき地なく、遠く望めば山形所謂釈迦頭の如し。上り上りて万丈転、此辺りより谷間を窺ふに、其深さ幾干を知らず。雪中には辷りて人の落入らん事を恐れて、其備へに檻をもうく。往昔は山内にて無頼の族有ば、其足手をばしもとに結付、追放する処なりとぞ。少し曲りて、外不動堂。もと大師の草創なりしを寛文年間、備前国上道郡金岡庄、野崎家久入道再興す。少々過てます??坂路さがし。岩不動、路傍の岩に不動の種子有。大師の御爪鐫なりといふ。過て西行の袈裟懸さくら。児滝。むかし児の捨身せし処といひ伝ふ。一帯の清泉、積翠万畳の中より流出し、こゝに至りて直下千尺、珠砕け玉踊る。天工、言語の及ぶ処にあらず。此辺にては百日の旱にも土地乾く事なく、清水流るゝ処なり。花折。此辺りにて何にまれ花折、大師に捧んと持行も有。また大師に手向るも有。皆 折とらば手ぶさにけがるたてながら三世の仏に花たてまつる と歌て過るも有なり。総て此辺りまで桟道の下、亦は山の峡等に小屋作りて物貰人の有けるを算しかば二千二三百人になりしが、一厘づゝ遣したれば二円二三十銭になりしと思はる。登りつめて、女人堂。往昔は女人此処まで来りて投宿せし処なり。故人塊亭の句に 柿むゐて居るもあわれや女人堂 と実に其様有しが、今は皆是より奥にも参詣なり初しは、大師の御心に叶や否や。〈従神谷辻五十丁〉、
不動堂〈大塔まで十丁〉。内の不動と云。是不動坂口と云なり。登り口七口有に、人の多く登るは恐らくは此処ならんと思はる。此不動尊は保延六年密厳院覚鑁上人、大師に擬して入定せんとす。大衆、大師の徳を奪はむことを恐れ、一時乱入して鑁師を襲ふ。鑁師飛出て庭前の池に入りて即本形卒塔婆となる。大衆また爰に来る。鑁師馳て此堂に入り全身変りて不動明王となる。大衆等堂内を窺ふに、明王二体有て権実弁じ難し。試に錐を膝上に揉む。鑁師の変身血出ずして、還て御作の不動紅血迸るに因て錐揉不動といふ。其後鑁師出奔して根来山を開きて入定するなり。
登山七口
大門口。是町石道と云。代々の天子御登山の道すじなり。
不動坂口 橋本、学文呂、河根、神谷辻より登るを云也。
大滝口 熊野口と云。小田原谷に通ず。是をはてなし越と云なり。
竜神口 湯川口、保田口等竜神え十三里。大門の脇に出るなり。
大峰口 東口と云。大峰より十五里、洞川、天川、野川より蓮華院谷に到る。また奥院のうしろにも出るなり。
黒河口 大和口とも云。千手院谷に出る。黒河村まで五十丁。野平村まで百二十丁。橋本えの近道なり。
相浦口 南谷にあり。相浦村より四十余丁、是近在よりの難道なり。
是より下るを一心谷と云。左り宝城院、花屋院、福生院右の側宝樹院、威徳院、真乗院。此傍に山内より見張の者有て国処を聞て其宿坊に案内す。上に明恵上人の手植の茶の木有るよしなり。其外不動堂、心字池、金輪塔。名所旧跡挙てしるし難し。左りに大徳院。此上に御宮と唱て徳川家の位牌堂有て、御三家、御三卿方の御位牌皆安置す。下に御殿屋敷、是神君御登嶺の時文禄三年入らせ給ひしと云。御霊屋の庭には銅の涅槃像有。其巨大、徳川家の繁栄思ひやらる。是より高祖院、南蔵院の前を過て青巌寺の脇より壇上の北に出て、本中院谷なる明王院に到る。未だ十時三十分なりと。当時は高岡教正の寺にて有る故、大に余が登山をよろこび呉られ、一睡をして飯して龍光院え到り宝物を拝する。
**宝物一覧(二十四点)省略
右の数点、客殿より仏殿に陳列すといへども、場所狹き故に微細に拝する能はず。是より勧学院にて陳列なる故また是を拝す。
**宝物一覧(百七点)省略
薄暮壇上え参詣し無量寿院に到る。爰に芝、赤羽根、山口来る。摂待懸り手伝致し居たり。別所教正は当寺え詰居られたり。当寺は諸国より参詣を摂待すべき為にもうけしと。福田大教正も爰え来ると申事にて別所教正も殊の外待たれたり。当寺は高岡教正の住地なり。当寺宝物。
**宝物一覧(五点)省略
当寺に床懸幅何れも結構なるものを懸たるが、是は一山中より摂待懸りえ五ヶ院勤番しけるが、何れの寺にまれ目ぼしきもの取よせ饗応に持用ひし由に聞り。扨一山今宵は参詣人追々来る。何れの寺も満々、明王院昨夜は百八十二人と聞けるが、今晩は凡其倍とも思はる。然し、此山上にして其に事足らずは実に感心なり。
十六日〈旧二十一日に当る〉。当山えは諸方より寺方も多く来られしが、今日は午前六時奥院揃にて九時に済しける故、早く起て奥院に到り待に、凡八時頃に漸々揃て出かけ十一時頃法会相済て帰院。壇上の法会は十二時と申事なるが、午後三時前山口氏、誘引に来り呉候間、同道して至る。大会堂と云に到り、拝するに同時やうやう青巌寺にて法螺一声響くや否錦繍辺を報ず。法衣にて練出し給ふこと。幾百人前導御影堂に練込に未だ獅子岳教正の輦輿出来ざるなり。凡半影堂に入りしと思ふ頃に出、徐々として堂に入給ひ、三管太鼓の管弦畢て、表向鐃鼓数声、異口同音の梵音、無数の菩薩も今や影向かと思はる。其半も過ざるに余は建仁寺梧庵長老登山有ばと聞て、小田原谷の奥なる湯谷の谷なる金剛三昧院は聖一国師の開基にて有ば、もし是にもやと、それを尋てければ、長老は在さざりしが、堂上に宝物の有を拝しぬ。
**宝物一覧(七点)省略
当山には正和二年宸筆の御経奉納の院使として、登山のとき金剛三昧院の潅頂堂の廊下の障子に書付ける。 ふくろなきものと聞こそうれしけれ仏はさとり我は迷ふに 大納言為兼。其外足利直義朝臣奉納短冊写百二十枚、其余古文書等多きよし。是よりしばし上り轆轤峠と云に上り、眼下を見おろすに、壇上の様粲然、其余谷々の院々目の及ばざるなし。北に女人堂有。是より熊野本宮道、無終越と云に出る〈また大滝とも云り〉なり。
此道当山東南の入口なり。熊野本宮に詣し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡十五里にして高野に至る。〈従本宮五十丁〉八鬼尾谷、〈四十丁〉七色茶屋、〈二十四丁〉八町茶屋、〈八丁〉はてなし峠、〈八丁〉観音茶屋、〈七十二丁〉柳本、〈八丁〉石楠部、〈八丁〉矢倉、〈百丁〉三浦峠、〈五十丁〉寒野川、〈七十二丁〉松平、〈十八丁〉上西、〈三十六丁〉かやこや、〈七十二丁〉大又、〈十八丁〉水ヶ峰、〈七十二丁〉大滝口、〈五十丁〉女人堂。
十七日。今朝はとく起立て奥院に参詣し、未だ人も少なかりき間に髻を切り、骨堂にもと思えども、今度は御歴代御亡髪、御爪、御歯等を埋めまゐらせし御墓にもうで、人なき片陰にて懐紙に、
   高野大師の一千五十遠忌の詣で髻を切りて
霜をなす髪を嵐に払はせておちばにそへて納む岩室
と認め此包を其苔わけ其中に納め、八時頃に帰るに早朝朦靄も明たりければ先導を雇ふて、壇上を過て杉むらに入、道六七丁乾の方に上る。道細く狹まり坂道さがし。十余丁にして杉のむら立のひまより紀の川筋も眼下に見え、紀泉の川々も見ゆ。また南には青海原も見えたり。上り上りて、岳弁天。宮殿美々敷、拝殿外に金剛童子社、荒神の堂。石灯籠。此処えの道不動坂よりも有るといへり。細道左右に有たり。此岳と併立るは奥院の上なる蕎麦峰といへる嶺なり。下るや正午。午後、新別所え到らんと往生院谷より深林の間を八丁にして、
別所円通寺に到る。是今別所教正の住地にして当山一派の律院なり。本尊釈迦、虚空、地蔵の三体なり。東鑑に俊乗坊重源逐電して高野に在りしとは此処なり。長明発心集に斎所権助成清が子、親にはかくともいはで遁世しけるを、重源上人ありがたく尊くおぼし召されて、高野に新別所といふ所有、我住ける処なり、不断念仏を唱へて一辺に往生極楽を願ふより他なし、早く彼衆に連り念仏の功つもれよといさめられ高野へ上りける云々。また山口重政といふ者は神君に奉仕し後祝髪して深慶と改めて、本院の荒廃を嘆き神君の厳像御歴代の尊牌を納め再興す。また代々の大徳当院に住給ひし御方挙てかぞへがたし。下りて向ふの方に清浄心院等は、殿堂美々敷、荘厳なりしが故参詣引もきらず。山中今日は宝物陳列の寺院多きと聞。其あらましを爰に記すに、
**宝物一覧(四十六点)省略
此余多けれども摂待懸り員より聞まゝをしるす。
十八日。不動坂より下る。神谷の村より左りに下りて凡二十丁も過、懸茶屋有。下りて西郷、是シイデ村。九度山の出郷なるべし。谷の両方に家居しまた一つの坂を過て下ること七十丁、九度山に到る。人家五百余軒。紀の川に枕みて家居す。旅籠屋、茶屋等有。此処地蔵尊とて真田幸村果居の地にして、古跡今に残りたり。川有。橋を架す。慈尊院村。慈尊院万年山慈氏寺と云。門前に下乗檄有。大師の御書を写し伝えしと云。裏門より入、右護摩堂。大師母公の廟、拝殿も今日は開帳にして、水鏡弥勒菩薩の御影、母公の手判并に大師将来の仏具等を拝さしむ。二重塔、大師堂、訶利帝母堂。石壇百余、正面に上りて七社明神本社。丹生、高野、厳島、気比、伊勢、八幡、春日、其余末社、堂社多し。神宝に太刀四振有て永正十四年国次の作なりと。此辺りは二万千石官省府二十一ヶ村を高野寺領とす。また中橋氏とて阿刀の大足が三男元忠といへる者、弘仁七年大師高野を開き給ふの日随従して来り、承和元年母公此処に来り給ひし時、中橋母公に随ひて政所の別当に任じて官省府の庄を支配す。此家主人三綱の中の上座の職を勤しと。今に此家より毎年壇上三月の御影供には登山して献備の品を点検する事を家格とす。宅は村の西別当やしきとて有。また石壇の下に町石有。是より大門まで百八十丁と云り。
往昔大師木を以て造立し給ふ。朽腐して数百年を経たり。文永二年覚鑁阿闍梨、大師の御告を蒙り石を以て改造す。御施主は後嵯峨天皇を始め奉り、列国の貴賤みな其姓名を鐫付く。梵文は小川の僧正信範、漢字は世尊寺経朝卿の筆なり。其時の願文もまた同筆にして山上の宝庫にあり。此丁石、壇場を本とす。壇場より奥院に抵る三十七町は金剛界の三十七尊を標し、此に至る百八十丁は胎蔵界の百八十尊に表せり。かゝる尊き道にすみて登れることなればとて、帝王既に当所の下乗の檄より玉の御輿を下りさせ給ふ。町ごとに懸る御持念拝礼有て玉歩をすゝめ給へりしとぞ。
〈続千載〉正和二年法皇高野山に御幸侍りし時世々の跡にこへて山のほど御輿にもめされざりしかばおもひつゞけ侍りける 僧正 道順
 高野山みゆきの跡はおほけれどまことの道は今ぞみえける
表門に出て人家両側に十数戸。旅籠店、茶店有。此川すじを添て下る時は麻生津の渡しに到る。此村の下、無銭渡しにて有りしが、御一新の後は一人三厘づゝをとる。こへて紀の川の北岸に出、畑道七八丁を過て大野村に出たり。是則若山より橋本街道にして茶店有。少々町のかたちをなす。爰にて昼飯して山手をさして入る。
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『己卯記行』本文 [ウオーキングMAP]

『己卯記行』本文
あさもよし紀人ともしもまつち山今朝こゑゆくと聞。其は大和の国の西南のはてなりと聞。
四月十八日〈旧暦《脱》〉。車を早めて坂にかゝる。峠に和州、紀州の境有。〈三里〉田圃道。過て橋本駅にいたる。是また千軒余の市街。川端に臨みて立り。市中上下の二渡し有。越て田圃道五十丁にして覚文路村に到る。茶店、旅竜や多し。往来の旅人多し。高野に上る者はこゝに荷物を預け行とし、茶やよりは番号の有る木札を渡す也〈玉や与右衛門〉。坂にかかる。上に石堂丸の旧跡有。九折四十丁上り、峠。此辺の人家、家毎に高野紙と云をうる也。十丁下りて加根村。川有。両方に旅篭や有。美しき家作り也。此辺り桜少し盛りを過たるやに覚ゆ。
 橋十余間。川の両岸崖。風景よろし。此川奥に北又、柿平、泊村等云有り。高野領 富貴えの街道有ど、甚しき嶮路なるよし。末は九度村に落る也。是より坂に懸り、人家ちらほらと有。当国は若山県下なるが、道路甚わろし。是より三十丁にして桜茶屋。風景よろし。明治四年、赤穂の士族七人にて敵七人を打しと云。是より峰通り二十丁行て神谷村。人家五十戸斗。多くは街道働也。茶や、はたごや七、八軒。何れも奇麗也。高野山の僧徒、此処まで遊びに来るよし也。眼下に九度山村を眺む。是より慈尊院道有。此辺桜満開也。過て山に懸る。道大によろしく成たり。右の上の方に岳の弁天、左りに児が滝、千丈岳落し等、昔しは当山限りの仕置場有。今は此事止みて県の御所置になりしかと。五十丁にして不動坂、女人堂。過て本谷の明王院に到る。此処に来るや、桜一本も咲たるを見ず。漸にして莟を抱し斗也。山陰皆雪也。奥院、伽藍等参詣す。総て其さま昔しにかわれども、其かわらぬ物は何か忝くぞ有て、袖のうるほへる也。
十九日。亡児小いしの日牌を納、焼香し畢て無量寿院。是は元興山寺と云しが徳川家御代々の御寺に有しが、今は寺領等没収せられ、一年の収納漸々金四円公債の利金御下げに成とかや。座敷向の結構、台所向の洪太、中々の物なりしが、一ヶ年四円の収納、障子の切張にもたるべきが、其余檀所と云無が故に一人の留主男有るのみ。此寺住職は高野一山の投標にて有るよしなるが、是故明王院高岡隆道教正が昨暮投標に成しとかや。依て別ても此寺はくわしく拝見をなすことを得たり。次に金剛峯寺、是は国中真言宗の投標なるとかや。是また書院の結構、無量寿院には下らず。今日は大塔普請に付、心柱を曳とかにて山中大にぎはひなりしが、昼飯を仕舞て下る。橋本より爪さき上り、紀三井峠なる《脱》やにて泊る。夜中より雨。
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明治期の高野山登拝二度 [神社仏閣]

明治期 己卯(十二年)・甲申(十七年)の二度登拝
 『己卯記行』の夫婦旅は明治十二年三月十五日出発、五月三十日帰宅の七十七日間に及んだ。武四郎夫婦のこの旅の目的は、第一に明治六年に亡くなった一志(いし)の七回忌にあたり高野山に日牌を納めることであった。妻とうが健脚の武四郎に従って長期の関西旅行をする気になったのはこの目的があったからであろう。亡児を思う親の心である。
 武四郎夫婦の結婚は安政六(一八五九)年九月のことであった。武四郎四十二歳、とう三十二歳。孫太翁の証言(稿本『癸未溟志』の解読原稿の余白書き込み)によれば、とうは初め尾藤水竹に嫁し、死別(安政元年)したのち、本草家阿倍櫟斎の仲立ちで武四郎と再婚したものである。水竹は武四郎とも弘化のころ交流があり、記念館には武四郎宛尾藤水竹書簡一通が残っている。結婚した翌年、とうは身ごもったが、これは流産。次に元治元(一八六四)年に生まれたのが一志(いし)であった。しかしこの子も明治六(一八七三)年十月に亡くなってしまった。染井霊園の武四郎の墓の傍らにたつ一志の墓碑は正面に彼女の手習いの字、他の三面に鷲津毅堂が墓誌を記し、市河万庵が書いた字が刻まれている。毅堂による墓誌は武四郎夫婦の悲しみの代弁である。
 武四郎の西日本への旅は十三年以降も毎年続けられた。十三年は大峯奥駈け(『庚辰紀行』)。十四年は太宰府まで足を伸ばし「聖跡二十五霊社」の下調べをし帰途吉野金峯山寺蔵王堂に大神鏡を奉納(『辛巳紀行』)。十五年は吉田松陰、島義勇の墓参りをするとともに太宰府天満宮に大神鏡を奉納した(『壬午游記』)。十六年は五家庄から鹿児島に到り西郷隆盛の墓参をした(『癸未溟志』)。十七年は高野山に髻を納め各地の天神社に小神鏡を納め石標を設置した(『甲申日記』)。十八年は大台一登めと秩父観音霊場めぐり(『乙酉紀行』『乙酉後記』)。十九年は大台二登めと信毛周遊(『丙戌前記』『丙戌後記』)。二十年は大台三登めと富士登山(『丁亥前記』『丁亥後記』)。富士登山を終えて半年後の明治二十一年二月十日になくなった。歩くことに徹した人生であった。
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武四郎の高野山登拝(江戸期) [ウオーキングMAP]

江戸期 自伝によれば高野山に二度登っている
十八歳[天保(一八三五)六乙未年]。正月田辺に到る。友人を訪ふ。五日滞留。是より富田、須佐、江住、田子、串本を過、下田浦より那智山に上りて本宮に到る。是より玉置山に上り前鬼後鬼を探らんと欲すれども山内法あるを以て行ことを得ず。依て伏し拝み、はてなし坂、柳本、矢倉、神の川、大俣、水が峰を過り高野山に到り、是より金峰、大峰のことは其秋登らんと延して、粉川寺より順礼道を泉州棋尾に越、観心寺に南朝の古跡を訪ひて河内に到る。和州、城州、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若州、敦賀より道を越前に取て福井より永平寺、三国、吉崎、大聖寺を過白山に到る。其麓黒川村に到る。未だ山口開けざれば登ることを許さゞるを導引の者を頼み中宮に到り雪を踏むこと凡三里、足先恰も氷る如し。是より小松に到り金沢を過て能州に出で、潟町に至りて七尾に至つて石動山(石川県)に登る。是より越中なる伏木に下り月見宝寿津を過、福光を過、八尾に到る。飛州に入らんと欲。是籠の渡しを見ん為なり。時に予出瘡甚し。氷嚢尽き甚難渋、時に村役人の宅に到りて四書又は唐詩の講をなして恵をうくること屡々なり。
籠の渡しを越て船津に到る。猿橋を見是より高山に到る。下呂に至りて入湯すること四月中旬なり。東美濃苗木領に至る。中仙道中津川宿に至る。是より岩村を過、三州に入る。鳳来寺、光明山、秋葉に到り奥の院より美佐(静岡県)久保、遠山越をして信州飯田に到る。伊奈筋諏訪に至る。甲州に入て金峰山、奈良田、七面、身延山を過、富士岳に到り郡内に到りて、八王子、川越を過、七月上旬江戸に到る。日光に至り中禅寺に行、黒髪山(男体山)、禅定に後れたるより栗山越、絹(鬼怒)川を下り白(白河)川を入て仙台の松島に行。時に八月下旬にて山は皆白を帯たり、故に相馬、岩城を過、水戸より鹿島、香取、銚子、上総国九十九里を過江戸に帰る。
霜月また立て遠州三崎、相良を廻り、横須賀、桜ヶ池より懸須賀に出て、三州御崎を廻りて志州鳥羽に渡り、志摩国南浜過り紀州熊野路を過、長島、三浦、香の本より尾鷲に及び、是より和州伯母谷に越る。此辺は皆後南朝の古跡。大滝、西河、上市、下市より泥(洞)川に越、天川に到りて野川に出て、又高野なる奥の院に到る。又可惜日短の空に入り如何ともすべきなき、十津川、前鬼、後鬼の勝をさぐることを得ざるをや。過て和田より阿州撫養(徳島県)に渡り、四国の八十八ヶ所の霊地を探らん為、爰より讃岐国八栗山(高松市)の麓□□村と云に到りて越年す。

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宝寿院 [ウオーキングMAP]

宝寿院
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金剛座寺・近長谷寺 [ウオーキングMAP]

明治13年、武四郎は大峯奥駈けをするために伊勢から和歌山別街道を歩いた。その途中、丹生の神宮寺に寄つて、伊勢暦を作る人とひと悶着があった。そのことはまた別に書くことにして、多気町の寺・史跡を巡るウオーキングMAPを作りたい、と思つて標題の二寺を拝観してきた。
金剛座寺本堂は今にも壊れそうな荒廃の中にあった。住職は別に住まわれているようで、若い修行僧が守ってみえた。
近長谷寺は城山の中腹にある。昔お参りした記憶があるが、急な坂を登った覚えがなかった。前は何の苦もなく登ったにちがいない。身体不如意の自分は何度も休んでやっと山門をくぐることができた。坂道はウォーキングMAPを作る時の注意点となる。

金剛座寺本堂
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近長谷寺本堂
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湯川秀樹博士の歌碑 [ウオーキングMAP]

2019.02.05、ウオーキングMAP作りのために、多武峰界隈を巡つた。

今年になって3回目。1回目は木楽さんに乗せてもらつて桜井から入り、談山神社をひと回り、飛鳥に出て帰つてきた。
2回目は武四郎追つかけ隊の方と一緒に、先に飛鳥を見て回り、談山神社参観。吉野に出て高見峠経由で帰つてきた。
今回は多武峰近くの不動滝の湯川博士の歌碑を見るのと西大門跡-冬野を歩くことが目的である。
多武峰の近くに不動滝があり、湯川秀樹博士の古事記碑があるとの情報を得た。古事記碑は、仁徳天皇に追われた速総別王が女鳥王とともに険しい倉橋山を越えようという時の逃避行の歌2首が書かれている。
湯川博士が歌碑を建てられている事、その碑には男女の哀しい愛が詠われている事に妙に心惹かれて、是非とも見たいと思つていた。
その歌。
*梯立(はしたて)の倉橋山を険(さが)しみと岩かきかねて吾が手とらすも
*梯立の倉橋山は険しけど妹と登れば険しくもあらず
歌碑は不動滝の傍らにちんまりと建つている。速総別王と女鳥王の逃避行が思われてしばし感傷にひたったのであった。
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↑不動延命滝の傍らに建つ湯川博士の歌碑

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↑歌碑正面

明治12年、武四郎と妻とうは談山神社参拝を終えて、吉野に向かつた。その時使つたのが「多武峰西王門-冬野-竜在峠-上市」の道であつた。本居宣長も『菅笠日記』の旅で通つた道である。
これを武四郎追つかけの『ドライブ&ウオーキングMAP』にしたいものだと思つている。が、今の自分には通して歩くだけの体力はない。せめて「西王門跡-冬野」だけでも歩きたい、と思つて木楽さんを煩わした。
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↑西大門跡-冬野歩行図

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↑上空から見た「西大門跡-冬野」 図中の赤線は関係なし。

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↑西大門跡から陸橋を渡る。

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↑付近案内図

十九日、熊野那智大社に参詣 [13年『庚辰紀行』]

十九日。井上、鳴神の両人同道で、熊野那智大社に参詣し、宝物を拝見した。那智の滝を眺め、実方院に泊まる。
二十日。那智の滝は高さも広さも無双の名瀑だ。案内の者を頼んで、那智の奥のいくつもの滝回りに出掛けた。

五月十七日午後、新宮に着く [13年『庚辰紀行』]

牛鼻社、柳島等下りて新宮城下の東岸に着す。過て是を大峰川と云。また熊野川、新宮川等唱ふるなり。海口には船舶数十船湊ていとにぎはひたり。川岸三丁斗過て町に入、馬町なる油屋に宿す〈凡三時少々前也〉。是より中川三蔭を尋る。座に井上斎といへる人有。是は江戸下谷橋本桑淳宅にて逢し人也。是より熊野政村に到る。飯田勉次郎を尋る。留主の事をしれども総て此地の事当人より手配致し呉たりければ、家内に面会す。次に細井八左衛門を尋、次に徐(*)福の墓を尋るに、当人宅より五丁斗先田ぼ中に有て、巨樹一本を存するのみ。李梅渓先生書の秦徐福の墓との碑一本有のみにして文も何もなし。其木には牛を繋有て、墓地牛糞の多きには大に困りたり。夜に入、旅宿に帰る。三蔭、斎、并に直川喜久平、山村懸り、鳴神敬簡等来り飲す。

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