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金剛座寺・近長谷寺 [ウオーキングMAP]

明治13年、武四郎は大峯奥駈けをするために伊勢から和歌山別街道を歩いた。その途中、丹生の神宮寺に寄つて、伊勢暦を作る人とひと悶着があった。そのことはまた別に書くことにして、多気町の寺・史跡を巡るウオーキングMAPを作りたい、と思つて標題の二寺を拝観してきた。
金剛座寺本堂は今にも壊れそうな荒廃の中にあった。住職は別に住まわれているようで、若い修行僧が守ってみえた。
近長谷寺は城山の中腹にある。昔お参りした記憶があるが、急な坂を登った覚えがなかった。前は何の苦もなく登ったにちがいない。身体不如意の自分は何度も休んでやっと山門をくぐることができた。坂道はウォーキングMAPを作る時の注意点となる。

金剛座寺本堂
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近長谷寺本堂
190210近長谷寺本堂.jpg


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湯川秀樹博士の歌碑 [ウオーキングMAP]

2019.02.05、ウオーキングMAP作りのために、多武峰界隈を巡つた。

今年になって3回目。1回目は木楽さんに乗せてもらつて桜井から入り、談山神社をひと回り、飛鳥に出て帰つてきた。
2回目は武四郎追つかけ隊の方と一緒に、先に飛鳥を見て回り、談山神社参観。吉野に出て高見峠経由で帰つてきた。
今回は多武峰近くの不動滝の湯川博士の歌碑を見るのと西大門跡-冬野を歩くことが目的である。
多武峰の近くに不動滝があり、湯川秀樹博士の古事記碑があるとの情報を得た。古事記碑は、仁徳天皇に追われた速総別王が女鳥王とともに険しい倉橋山を越えようという時の逃避行の歌2首が書かれている。
湯川博士が歌碑を建てられている事、その碑には男女の哀しい愛が詠われている事に妙に心惹かれて、是非とも見たいと思つていた。
その歌。
*梯立(はしたて)の倉橋山を険(さが)しみと岩かきかねて吾が手とらすも
*梯立の倉橋山は険しけど妹と登れば険しくもあらず
歌碑は不動滝の傍らにちんまりと建つている。速総別王と女鳥王の逃避行が思われてしばし感傷にひたったのであった。
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↑不動延命滝の傍らに建つ湯川博士の歌碑

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↑歌碑正面

明治12年、武四郎と妻とうは談山神社参拝を終えて、吉野に向かつた。その時使つたのが「多武峰西王門-冬野-竜在峠-上市」の道であつた。本居宣長も『菅笠日記』の旅で通つた道である。
これを武四郎追つかけの『ドライブ&ウオーキングMAP』にしたいものだと思つている。が、今の自分には通して歩くだけの体力はない。せめて「西王門跡-冬野」だけでも歩きたい、と思つて木楽さんを煩わした。
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↑西大門跡-冬野歩行図

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↑上空から見た「西大門跡-冬野」 図中の赤線は関係なし。

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↑西大門跡から陸橋を渡る。

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↑付近案内図

十九日、熊野那智大社に参詣 [13年『庚辰紀行』]

十九日。井上、鳴神の両人同道で、熊野那智大社に参詣し、宝物を拝見した。那智の滝を眺め、実方院に泊まる。
二十日。那智の滝は高さも広さも無双の名瀑だ。案内の者を頼んで、那智の奥のいくつもの滝回りに出掛けた。

五月十七日午後、新宮に着く [13年『庚辰紀行』]

牛鼻社、柳島等下りて新宮城下の東岸に着す。過て是を大峰川と云。また熊野川、新宮川等唱ふるなり。海口には船舶数十船湊ていとにぎはひたり。川岸三丁斗過て町に入、馬町なる油屋に宿す〈凡三時少々前也〉。是より中川三蔭を尋る。座に井上斎といへる人有。是は江戸下谷橋本桑淳宅にて逢し人也。是より熊野政村に到る。飯田勉次郎を尋る。留主の事をしれども総て此地の事当人より手配致し呉たりければ、家内に面会す。次に細井八左衛門を尋、次に徐(*)福の墓を尋るに、当人宅より五丁斗先田ぼ中に有て、巨樹一本を存するのみ。李梅渓先生書の秦徐福の墓との碑一本有のみにして文も何もなし。其木には牛を繋有て、墓地牛糞の多きには大に困りたり。夜に入、旅宿に帰る。三蔭、斎、并に直川喜久平、山村懸り、鳴神敬簡等来り飲す。

五月十五日、本宮に入る [13年『庚辰紀行』]

十六日。・・・三起村、小森村を過て本宮に到り、大峰川に到る。本宮も元は音無の里といへるなり。また音無山は此上を云り。滝は三つ有。上の滝は大小の上に有。中の滝は小森村。下の滝は町の北一丁に有るなり。・・・
巽御門を入て右の方社務所有。是え到る。音無宮司、早宝物を西の方の礼殿に出して有たり。正面には、中の四社。并て東の四社。并て八百万神の社。中の宮の西に若宮、一の宮、神楽殿、二三の宮と七種並びたり。桧はだ葺、実に神威赫々たる宮立なり。・・・
夕方帰りしかば今日は卯月八日とて草餅を出してけるが、音無宮司よりまた使して、小舟を命じて若鮎とりに呼ばれけるが、此川すじ総て急流にして石川なる故に外の国の投網とは異にして、巾二尺七、八寸、長二丈も有を下に鎮石をつけ、上に浮子を付たるを投てとること也。是また一種の網なりけるが、八日の宵の月夜にして明るかりけるその慰み、実に旅中の一興なりけり。宮司は国書にくわしく曽園歌を好まるゝ様に聞て詠を乞たりしかば明朝をと辞して袖を分たれたり。
夜また音無宮司、記録類を一櫃持らせ来りしが、何れも明和後の物なり。然し抄写様の物等有しを少しを写し置しが、往昔御幸の事は平城、清和、宇多、花山法皇、白川上皇、堀川、鳥羽法皇、後白河、後鳥羽、土御門、亀山上皇等、就中後白河法皇は三十四度。治承年間には小松内府重盛、元暦のはじめは維盛其余公武の崇敬浅からず。次は聖護院、亦三宝院の御門主、御一代必ず一度は御参詣有し社なり。・・・
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挿絵
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