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十九日、熊野那智大社に参詣 [13年『庚辰紀行』]

十九日。井上、鳴神の両人同道で、熊野那智大社に参詣し、宝物を拝見した。那智の滝を眺め、実方院に泊まる。
二十日。那智の滝は高さも広さも無双の名瀑だ。案内の者を頼んで、那智の奥のいくつもの滝回りに出掛けた。
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五月十七日午後、新宮に着く [13年『庚辰紀行』]

牛鼻社、柳島等下りて新宮城下の東岸に着す。過て是を大峰川と云。また熊野川、新宮川等唱ふるなり。海口には船舶数十船湊ていとにぎはひたり。川岸三丁斗過て町に入、馬町なる油屋に宿す〈凡三時少々前也〉。是より中川三蔭を尋る。座に井上斎といへる人有。是は江戸下谷橋本桑淳宅にて逢し人也。是より熊野政村に到る。飯田勉次郎を尋る。留主の事をしれども総て此地の事当人より手配致し呉たりければ、家内に面会す。次に細井八左衛門を尋、次に徐(*)福の墓を尋るに、当人宅より五丁斗先田ぼ中に有て、巨樹一本を存するのみ。李梅渓先生書の秦徐福の墓との碑一本有のみにして文も何もなし。其木には牛を繋有て、墓地牛糞の多きには大に困りたり。夜に入、旅宿に帰る。三蔭、斎、并に直川喜久平、山村懸り、鳴神敬簡等来り飲す。
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新宮

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挿絵
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五月十五日、本宮に入る [13年『庚辰紀行』]

十六日。・・・三起村、小森村を過て本宮に到り、大峰川に到る。本宮も元は音無の里といへるなり。また音無山は此上を云り。滝は三つ有。上の滝は大小の上に有。中の滝は小森村。下の滝は町の北一丁に有るなり。・・・
巽御門を入て右の方社務所有。是え到る。音無宮司、早宝物を西の方の礼殿に出して有たり。正面には、中の四社。并て東の四社。并て八百万神の社。中の宮の西に若宮、一の宮、神楽殿、二三の宮と七種並びたり。桧はだ葺、実に神威赫々たる宮立なり。・・・
夕方帰りしかば今日は卯月八日とて草餅を出してけるが、音無宮司よりまた使して、小舟を命じて若鮎とりに呼ばれけるが、此川すじ総て急流にして石川なる故に外の国の投網とは異にして、巾二尺七、八寸、長二丈も有を下に鎮石をつけ、上に浮子を付たるを投てとること也。是また一種の網なりけるが、八日の宵の月夜にして明るかりけるその慰み、実に旅中の一興なりけり。宮司は国書にくわしく曽園歌を好まるゝ様に聞て詠を乞たりしかば明朝をと辞して袖を分たれたり。
夜また音無宮司、記録類を一櫃持らせ来りしが、何れも明和後の物なり。然し抄写様の物等有しを少しを写し置しが、往昔御幸の事は平城、清和、宇多、花山法皇、白川上皇、堀川、鳥羽法皇、後白河、後鳥羽、土御門、亀山上皇等、就中後白河法皇は三十四度。治承年間には小松内府重盛、元暦のはじめは維盛其余公武の崇敬浅からず。次は聖護院、亦三宝院の御門主、御一代必ず一度は御参詣有し社なり。・・・
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挿絵
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熊野三山 [13年『庚辰紀行』]

 大峰奥駈けのStart&Goalは、吉野と熊野三山である。吉野は近年何度か訪れて実地調査を行ったが、熊野三山は、若い時の経験があるのみで、それもほとんど記憶に残っていない。折よく「武四郎追っかけ隊」の皆さんに誘われたので、病気の体に鞭打って出掛けることとした。ガイドすることを期待されているので、ここから数回はその予習を載せることとする。

 明治十二年の夫婦旅の途次、吉野において竹林院の古沢龍敬、喜蔵院の宮城晋一から、修験道の苦境について話を聞き、維新政府の「修験道廃止令」に反撥する武四郎は、それならば自分が大峯奥駈けに挑戦しようと約束をした。
 明治十三年、前年の約束に基づき、吉野にやってきた武四郎は吉野の人々の応援のもと、小西善導らと大峯奥駈けに出掛けることとなった。山行中、天ヶ瀬の岩本弥一郎と知り合いになった。これは十八年からの三年間、大台ヶ原探検の大きな助けとなった。
 そして、明治十四年、武四郎は前年の大峯奥駈けを記念して、金峯山寺蔵王堂に大神鏡を奉納した。

稿本『庚辰紀行』(明治十三年)あらすじ

四月十二日。出立。七平、お幾代、おしげが新橋駅まで見送りに来てくれた。夜は箱根湯本の小川楼で宿泊。
十三~十六日。箱根~蒲原~三島~静岡。柏原学而、安間純斎、中島辰太郎を訪ねて古物を見る。石堂を調べる。
十七~二十日。見付~二川~豊橋~名古屋。足立氏、古田源六、金原明善、米阿弥、佐々木復助らを訪ねる。
二十一~二十三日。名古屋博覧会、熱田神宮、真福寺、関戸家を訪れ、記紀の写本、宝物、茶道具を拝観する。
二十四~二十七日。桑名~四日市~津。岩村県令、岡、辻、川喜田家を訪ねる。小野江で墓参。本家にて泊まる。
二十八~三十日。伊勢に入り亡き師足代弘訓宅を見舞う。両宮を参拝。福井端隠らが歓迎の小集を開いてくれた。
五月一~三日。宮川~田丸~粥見。櫛田川に沿って西進。舟戸~高見峠~杉谷。高見川に沿って進み吉野に入る。
四日。喜蔵院の宮城氏の案内で諸仏堂を拝観。昨年約束をかわした竹林院隠居の古沢龍敬と連絡をとってもらう。
五日。昨年知り合って今回大峰奥駈けの行を共にする小西善導が到着。龍敬も帰ってきて顔合わせができた。
六日。メンバーは武四郎、善導、先達の喜右衞門の他、三人の合力がつくことになり、山中の持ち物を揃えた。
七日。一行六人で出発。戸開き参加の大勢の信者達に交じって山を登る。等覚門、妙覚門を経て山上本堂に到着。
八日。早起きをして本堂前で般若経三巻を唱し、七時出発。小篠の宿、大普賢岳、石伏宿を経て弥山で泊まる。
九日。禅師宿、仏生山、孔雀岳、鐺返しを経てやっと釈迦岳に着いた。全方向、頂上からの眺望は圧巻であった。
十日。鉈削りで卒塔婆一本を作り、供養塔にする。今日の行程は前鬼までで行者坊に着く頃、雨が降り出した。
十一日。行者坊を基地に裏行場の前鬼川の遡行に出掛ける。滝の連続する行場だ。この山中で育てる仔牛を見る。
十二日。行者坊を出立。滝を見ながら坂道を下る。蝮に要注意。熊野街道に到着して、同行の善導たちと別れた。
十三日。宿の主人の案内で筏師の筏の操り様や曲乗りをおもしろく見物する。筏師達に東京の話をせがまれた。
十四日。高原村、平谷村、川端村、小松村。この辺り奇岩、大岩が多い。舟を雇って両岸絶壁の瀞八丁を下る。
十五日。案内を頼んで玉置山に登る。本宮に入り倉矢数見を尋ねた処、一宿をと勧められて泊まることとなった。
十六日。倉矢の案内で本宮とその周辺を探訪する。宮司の音無氏が出してくれた宝物を拝観。のち湯の峰に到る。
十七日。音無宮司が和歌三首の餞をしてくれた。本宮から新宮までの九里を舟で下る。着いて徐福の墓を尋ねる。
十八日。微雨。町内は西国巡礼が多く泊る、賑やかな町だ。祠官楠氏を訪ね、熊野速玉大社の宝物を拝見する。
十九日。井上、鳴神の両人同道で、熊野那智大社に参詣し、宝物を拝見した。那智の滝を眺め、実方院に泊まる。
二十日。那智の滝は高さも広さも無双の名瀑だ。案内の者を頼んで、那智の奥のいくつもの滝回りに出掛けた。

二十一日。出立。柿原茶屋、見起峠、湯川王子社、岩神坂、媒介茶屋。中河王子社を経て、栗栖川村に到り泊る。
二十二日。宿の亭主に荷物持ちを頼んで出立。市ノ瀬王子。後鳥羽院垢離場、影見王子社を経て田辺に到着した。
二十三日。船に乗っての湾内見物は風波荒くかなわなかった。綱不知、風なき浜等を見、中内翁宅に到り宿る。
二十四日。御腰掛石、潮垢離の浜を経て、江の浜から船を雇って芳養村へ。道成寺に到って門前に宿をとった。
二十五日。富安王子社等を経て鹿背山の峠を越す。湯浅町から船に乗って、翌朝早く紀伊三井寺の下に着いた。
二十六日。一日滞留してゆったり紀伊三井寺と和歌山城下を回る。倉田秋香宅に落ち着き元県令津田香巌を訪う。
二十七日。早天より志賀八十右衛門を尋ね、勢州泊村にて出土の古代鈴を譲り受ける。秋月村に至り紀氏を訪う。
二十八日。終日、和歌山の人との交流を図った。二十九日。紀伊和泉の堺を越え大鳥の富岡鉄斎宅に落ち着いた。
三十日。税所氏を訪ね、飲む。三十一日。鉄斎と堺に至り、竹林院隠居の古沢龍敬を訪ねる。一雄宅に落ち着く。
六月一~四日。大阪の知人宅や田中猶次郞宅を訪ねて回る。大阪の好古家たちが送別の一小集を催してくれた。
五~七日。西京に着き、鏡匠の金森氏宅に宿を定む。旧知の者を訪う。山中静逸、小松原、福井、高島らを訪う。
八~十日。二条善導寺にて尚古会を催す。前年に増し盛会となる。橘諸兄卿像を入手。関の玉やに宿をとる。
十一日、晴海大津や泊。十二日、豊橋米善、十三日、日坂黒田や泊り、十四日、静岡柏原氏に着す。
十五日。箱根角やに宿す。十六日。藤沢大坂やにて泊る。十七日、十一時帰宅。亀次郎の容態は芳しくない。
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熊野三山の位置


『四国遍路道中雑誌』について その2 [『四国遍路道中雑誌』]

 彼の『四国遍路道中雑誌』の執筆動機は、個人的な体験の記録ではなく、これから四国遍路に出掛ける人への案内記を志向している。冒頭において、
(遍路姿に)身をやつして遍路の順程を聊因ある信者にも見せばや、又は一丁字の弁なき婆子にも見せまほしく覚え候侭に、一小冊を懐にして日々の順路、村名、里程をしるし、又は堂塔、坊舎多き霊場は其境内に山色、風光を審にして、一度此書を閲るものは座ながらにして三百八十余里の長程を歩み、八十八ヶ所の霊場に法縁を結ばしめ、大師創業時の志給ふ苦辛を感じて、一度にせよ、南無大師、遍照金剛の称名を誦せりしこと、今浄書して置んと禿筆を始む。
と本書執筆の動機、目的を述べている。実体験の記録を日誌として記すのではなく、案内記を著そうとした。彼はただ漠然と各地を移動しているのではなく、いろいろな案内記や名所図会を見、それに導かれながら旅をしていて、自分も案内記を書いてみたいという欲求があった。習作として意識していたに違いない。しかし、これを書きあげただけで上梓しないのであれば、右にいう「信者」や「婆子」のもとに届きようがないから、本稿本の浄書には公刊の意志があったのかもしれない。
 彼の携行した「一小冊」は「日々の順路、村名、里程をしるし、又は堂塔、坊舎多き霊場は其境内に山色、風光を審にして」というのであるから、野帳のことであろう。彼にとって野帳は必携のアイテムであり、野帳携帯のスタイルは後々まで長く続いた。笠や杖の他、持ち物として必要な物はないのか。本文には具体的には書かれていないが、当然のことながら地図類・案内記も持っていたに違いない。8年後の執筆時点(弘化元年・机上作業)でも、何らかの案内記、名所図会を参考にしたと思われるが、具体的には書かれていない。当時よく使われていた案内記は宥弁真念の『四国徧礼道指南』(貞享3(1687)年)であり、武四郎の稿本にも酷似した表現が出てくるので参考にした可能性は高い。『四国徧礼道指南』は経路の明確化を意図して作られ、詳細な情報が記されている。初めて 88の番号と札所が一対一で対応させられた点でも特筆される。以後、改訂、増補を重ねて江戸期末まで利用されたロングセラーだった。他に『四国徧礼霊場記』(寂本)、『四国徧礼功徳記』(真念・寂本)、『四国遍路海道記』(大淀三千風)、『四国徧礼絵図』(細田周英)等何種かの案内記、旅行記が発行されたが、武四郎の用いたものは何だったのか、今のところ特定できない。今後の検討を俟ちたい。
 稿本には、見開き1丁の挿図36枚、半丁の挿図6枚、小図若干が使われている。旅の途次、彼がスケッチしたものである。山名、地名、寺社名もしっかり示されているので、本文の理解を助けている。名所図会として編集する志向もあったのではないか。もっともこの挿図については本文(181頁)において、「しっかりした原図があったのだけれど九州時代に失い、日記として描いたものしか手許になかった」と述べている。
 武四郎は、前述のように情報源として地図・ガイド・名所図会等も携行していたと思われるが、その他、土地の人たちからの取材も忘れていない。また必ずしも実体験のものばかりを記した訳ではない。案内記からの情報、土地の人たちからの伝聞は「〇〇と云」」(194ヶ所)「〇〇と聞」(16ヶ所)「〇〇と云伝」(32ヶ所)(計242ヶ所)等と伝聞であることを明示している。彼の「聞き取り上手」なルポルタージュ的手法は、後年蝦夷地において大いに発揮されている。
 四国遍路の風習はいったいいつごろ発生し、どのようにして大衆的なものになったのか、不明な点が多いが、真念(?~1691)の頃には一応の形を整えていたものと思われる。彼は江戸時代初期の高野聖で、四国88箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と言われる『四国徧礼道指南』と、その霊験記である『四国徧礼功徳記』(寂本と共著)を出版し、また、遍路屋(真念庵)の建立や標石の造立をした人物である。彼の取り組みにより、庶民の四国遍路が定着した。
 武四郎は若い頃(天保5~7年、17~19歳)2回四国に渡っている。蝦夷地に赴く途次、故郷に寄ってこれを書き上げたことは本稿本第1冊の末尾でわかる。第1冊の末尾には「弘化元年稿/二十八才/四国遍路日誌/全三冊」とある。88ヶ所の霊場や距離などの詳細については数年に及ぶ九州滞在の中で諸資料に当たって調べてあったのではないかと思われる。四国に渡った 2回の経験とはどのようなものであったか、『自伝』を引用してみよう。
十七歳[天保甲午五年] 十月坂地を出て播州地より備前を過て讃岐に到り、東讃碁の浦を過て阿州に至り、十二月淡路に越是を一週して紀州和田に渡り、和歌山に到る。
十八歳[天保六乙未年] 過て和田より阿州撫養に渡り、四国の八十八ヶ所の霊地を探らん為、爰より讃岐国八栗山の麓□□村と云に到りて越年す。
十九歳の時[天保七丙申年]に再び阿州に出で、坂東霊山寺より順次拝之。二十番鶴山の奥の院、潅頂ヶ滝、大竜寺奥の院、黒滝寺一つとして是を余すなく、三月土佐に入り、四月伊予国五十七番横峰寺奥の院なる石槌山に上る。時に五月二十五日、実に是予が望足りぬと言つと思はる。順拝相終て讃岐国金比羅より山越して阿州なる箸蔵寺に上り、祖谷山に越、怒竈、鳴滝、七段滝を過て剣山に上る[六月十七日]。爰に到るや石鎚岳を南西に見、焼山寺岳を東に見ゆ。当春焼山寺に上るや実に其高きこと南海第一と思ひしに、今日爰に到り焼山寺を此児孫の末に見るをや。翌十八日朝山回りしてまた祖谷に下り、其より撫養に出又紀州和田に渡り、是よりして和州金剛山、天の川、泥川に行。

 弘化元年、武四郎は蝦夷地を目指すことになるが、その途次、前年(天保14年)に故郷に立ち寄り、『四国遍路道中雑誌』を執筆し、姪たちのために『武四郎風刺双六』を描いている。『自伝』を引用する。
二十六歳[天保癸卯十四年] 去年二月十二日母の身まかりしことたよりありしかば、是よりして帰省のこと思ひ立て、八月大村領なる舟を便して十月上旬上坂し、京に到りてまたしばし休らひて伊勢の国に帰りける。
二十七歳[弘化元年甲辰] 二月十二日は母の三年忌なりける故、父の七年忌も共に行はるゝよし。其こと済けるや否、予は直に十五日両宮へ参り再び家出せんと、先外宮に参りけるや法躰の者は広前に遣らざる由にて、御しら石といふ者いたく咎けるを附髪てふもの拵へて参る。・・・是より蝦夷が島の隅々まで探り何の日か国の為たらんことをと、また氏神貴船大明神の社に詣で二月二十五日旅装して京都さして上り・・・

 これで見ると1回目(天保5年・17歳)は播州を経て備前から讃岐に入り、阿波の途中からいったん紀州和田に渡った。2回目(天保7年・19歳)は紀州和田から撫養に渡り、1番霊山寺から順次回ったとある。ところが、『四国遍路道中雑誌』冒頭では、天保7年19歳の時に播、備の両州を経て下津井の湊から丸亀に渡った、としていて実際と記述の間に齟齬がある。2回の経験を一つにまとめ上げる再構成の意図がうかがえる。
 四国遍路は阿波の国の霊場(23ヶ寺)を「発心の道場」、土佐の国の霊場(16ヶ寺)を「修行の道場」、伊予の国の霊場(26ヶ寺)を「菩薩の道場」、讃岐の国の霊場(23ヶ寺)を「涅槃の道場」といっている。であれば、1番から始めるのが順当であると思われるが、それを途中の78番道場寺から始めたのは、自らの経験であるとともに、当時大坂からは直接、あるいは播州・備州を経て下津井から船で丸亀に渡るのが一般的であったからであろう。このルートは金毘羅参りをする道の一つで、船便を得やすい。また遍路をする上での便宜、例えば身分を証明するものの取得が大事であることを強調したかったのではないかと思われる。各地に番所があり、遍路とはいえ入国・出国の厳しいチェックを受ける。それに対応するにはどうすればいいかをまず説いている。寂本の『四国徧礼霊場記』が 75番五岳山誕生寺善通寺」から始めているのも興味深い。
 四国遍路は真言宗の寺を回るのを主としているが、天台宗4ヶ寺、臨済宗2ヶ寺、時宗1ヶ寺を含み、門戸の広さを見せている。また中世から神仏習合の影響が強く、寺社が同じ境内に同居、あるいは親しくしている例は多かったが、明治初年の神仏判然令による神仏分離、廃仏毀釈で四国遍路の寺々も様々の影響を受けた。廃寺に追い込まれたり、荒廃を余儀なくされた例も少なくない。補注でその例をいくつか取り上げた。

『四国遍路道中雑誌』について その1 [『四国遍路道中雑誌』]

 松浦武四郎はその能力、業績、行動において多面的な人物であったから、その人物像をひと言でいうことは困難である。しかし、一生涯通しての特徴ということでいえば、探検家であり旅行家であったというのは異論のないことであろう。それは15歳の家出の時から71歳でなくなるまで一貫していた。病に倒れていなかったならば、西日本への旅行、特に大台ヶ原への三重県側からの登山など、まだまだ続いていたに違いない。彼の探検、旅行は無目的の漫然たるものではなく、飽くなき探究心に支えられていたのはいうまでもない。
 武四郎は明治10年代、毎年のように西日本への旅行を行い、大峯奥駆けや大台ヶ原登山を敢行し、また『聖跡二十五霊社』順拝の取り組みをしている。事後、『尚古杜多』、『庚辰游記』等の小型本を発行し、友人・知人に配付しているが、これは古物一覧や古物会の模様などを記しているのみであった。後には簡略な旅行記も出すようにはなったが、彼にとって旅行は趣味的なもので、悠々自適の「余生」を送っていたかのような印象を与えていた。しかし、これらとは別に彼は詳細な旅行記を記し、稿本として残していた。これら稿本類を倂せ読むならば、彼の旅行は決して趣味的なものではなく、自らの生き方に関わる大事さを持っていたことが了解される。
 松浦武四郎記念館は、2010年度以降、これら未刊行の稿本の解読、発行につとめてきた。明治10年代の稿本発行については、昨年(2016)度で一応の区切りがついたが、若い頃からの旅行記録は稿本のまま他にも残っているものがある。あるいは活字化されたものの現在では入手困難となっているものもある。これらに触れる事は武四郎研究、武四郎理解のうえで欠かせないので、この事業は今後も継続していかなければならない。その意図の元に今年度は『四国遍路道中雑誌』の解読と発行を行うこととした。明治10年代の稿本は晩年の武四郎理解に役立ち、『四国遍路道中雑誌』は若き日の武四郎を知るうえで有益なことである。
 『四国遍路道中雑誌』は稿本のまま長く東京松浦家に保存され、戦後、国文学研究資料館史料館寄託を経て現在は松浦武四郎記念館の所蔵となっている。昭和50(1975)年、吉田武三氏により活字化され、その存在が広く知られることとなった。 2000年には多くの松浦武四郎関係歴史資料とともに国の重要文化財として指定された。
 本稿本は3冊からなり、各冊とも表紙は縹色万字繋空押の用紙を用いている。外題「四国遍路道中雑志一(~三)」、内題「四国遍路道中雑誌」である。寸法は3冊とも同じで26.5×18.3㎝。第1冊43丁、第2冊46丁、第3冊20丁、計109丁である。原稿用紙は柱刻に「不貸不鬻/多氣志樓蔵」と刷り込んだ特注のものを用いている。執筆は彼が27歳の弘化元(1844)年、故郷でのことであったが、その時点で右の原稿用紙を用意していたとは考えにくいので、後年浄書した可能性がある。また欄外及び本文への書き込みが 40ヶ所もあるのはその時の付加ではないかと思われる。
 本稿本の活字化は吉田武三氏による「四国遍路道中雑誌」(『松浦武四郎紀行集 中』(昭和50(1975)年刊に所収)が唯一である。吉田本の底本は「文部省史料館蔵」のものである。現在は松浦武四郎記念館所蔵となっているから、今回発行の対象にしているものと同一である。武四郎の字は崩し方に彼独特のものがあり、他の読みの可能性もあるのであえて取り上げることとした。また吉田氏本は発行後42年がたち、入手困難となっていて、活字化されたものはなかなか閲覧しにくくなっているのが現状である。
 そこで新しい解読本が必要となる。今回の解読は「武四郎を読む会」の会員(唐津巳喜夫・佐藤貞夫・出口孝次・松村瞭子・森昌彦・森川正美)が分担し、最終的に佐藤貞夫が統括して出版することとした。結果的に吉田本とは違う読みを何箇所かで採ることとなった。
 明治10年代の彼の探検、旅行の記録は日誌スタイルを採っている。日々の記録を綴るスタイルである。それに対して今回取り上げる『四国遍路道中雑誌』は日誌スタイルではない。先行する案内記や名所図会、地元の人々からの伝聞も入れて自分の体験を再構成している。日誌スタイルは個人的なものとして理解されるのに対して、事項見出しのものは、他の人間にも応用の出来る汎用性のあるものとして意識され、旅行ガイド、案内記としての役割を果たすことが出来る。彼は『松浦武四郎自伝』冒頭において「人となりて諸国の名山大岳に登らんことを欲して名所図会また好て地誌を読」と記しているが、読む側から書く側に立とうとしたのが本書で、その後、多くの地誌を著し挿画を描く出発点となっている。その点では習作的な意味合いもあった。

付録 剣山大権現 [『四国遍路道中雑誌』]

剣山大権現 本社、小き石の祠也。祭所 安徳天皇の御太刀を置と云伝ふ也。また是よりして南に少し隔り て小き谷を越て、
小剣山大権現 の社有。此余山中には八十五末社有と。其数、名目、先達に案内を乞はざれば一々しれが たしと。是よりまた少し山に上りて 十柄の権現 といへる社有。すこし下りて 一ノ森権現、 並て 二ノ森権現、 並て 十二社権現、 並て 経塚 帝、神璽寺にいらせ給ひし時に、法華八巻を書写し給ひし。入水の軍卒一門の為に此処に納め給ひしと云伝ふ。並て少しの谷のあなたに 花畑 といへる平地有。此処には四時ともにさまざまの草花有と。別、花躑躅多しと。是よりまた大剣山の下に来るに おしき水 といへる清水有。此水四時ともに涌出る。参詣の人竹の筒を持行て、皆是に入帰る也。瘡浸等を愁る人に験多しと。また少し行て 不動の窟 といへるもの有。入ること凡七、八軒(ママ)(間)。皆松明を用て入る也。少し下りて 鎖禅定、 又下りて、しばし行に 御手洗鉢 等其外名所数十ヶ所有る也。又峰より西南を眺めば加霊山とて高山見ゆ。此山は土州境也と。是には九十九ヶ処の滝有る由也。実に稀代の山なりとかや。
是より下ること、五十八丁にして、
表山別当竜光寺 是また六月十六日、十七日、十八日の三日のみこゝに来り、其余は麓に下りて住する也。真言宗にして弘法大師の開基なるよし。また此境内より東を望むに、焼山寺の山、仏飯をもりし如くに見ゆる也。されども是より谷すじを下り行ば、十二り有りと聞り。是にて此国の広きこと思ひしらる。
扨、余は是よりまた猿飼村に帰るに、寺より本道を下りて寺より左り山に入て猿飼村に帰る。実に此行よき折とは云ながらに、五月二十八日予州石鎚山に登り、六月十二日箸蔵寺へ参詣致し、又此日剣山登ること実に仏縁とも云なるべし。然れども、其おしむべきは祖谷山に入らざりしと、伽霊山に行ざりしことは、如何にも残念とぞ覚。其上此辺りを歩行の時聞たり、又は見たる景等を図したる巻を、肥前平戸寓居の時に紛失致せしが、如何にも残念にぞ覚けり。然れども其日記とすべき一巻によりて、此度此三巻を綴て、又境内の図等は、石にこしかけ道傍に佇立して図せしを抄挙して.此地にゆかりを結ばざる道俗男女の為にもと、しるし置もの也。又土人の云に、此祖谷山には、祖谷の懸はしとて、大ぼけと申地に此向の山崖より彼向の断崖に、一本の大木を渡して往来する地等も有よし。其又麓には小ぼけと申て、柴もて懸たる橋等も有よし。其余琵琶ヶ滝、並にかづら橋と云有と。此かづら橋は数十丈深き谷の上に纔二条の藤かづらを引渡し、此かづらに木を二つわりにして其をこゝかしこと、一尺間位に是を結つけたりと。此辺りの人は柴を負、薪を荷て此橋を渡るに、何のざうさも無りしが、他村より行しものは中々此橋を渡ることをやう致さゞりしとかや。其辺の事を詠じたるに
 辺りにはたえず平家のものがたりいとおもしろき琵琶の滝つせ 浪花 桃苗
 いや高く聞ゆる滝の琵琶の音のほろ〳〵雨にも水まさりてや 阿波 春芳
 見るからにわたるもいやのかづらばし身もはいかゝる心地こそすれ 桃苗
 心なき雲こそわたれ鳥すらもいゆきはゞかるみねのかけはし 権大僧都斎収
等聞待るまゝしるし置もの也。
また此剣山に石楠木多し。余等上りし頃、未だ山上は花の盛なりしが、其色紅を畳み、頗る風景よろしく見えたりけり。余には熊笹のみにして嶺上には見に当るものなし。又四国の山々よく見え、石鎚山もあれなりと指さし示さるゝに、雲間に突出して頗る高くそびえたり。実に霊場と云にもあまり有けり。またかゝる処まで平家、源氏に追はれて世を避しも、また感涙を催すのたねぞかし。

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挿絵
09剣山.JPG


付録 怒竃・見残し [『四国遍路道中雑誌』]

遥拝所 一間に三間斗の小堂を懸、崖の上に建懸たり。是よりして向方なる崖に有る五丈八尺の瀑布を拝す。此傍に樹木隠れに、 箸蔵谷窟 有。是を拝す。則、本尊は蔵王権現なるよし。其景次に図するがごとく、陰森たる景中々紙筆につくすべきところにあらず。又此処に行こと一年中纔三月、六月、十月の十二日のみの三日を限る。寺にかえりて護摩供有。翌日下りて、半田の方へ到る。九折二十八丁。険□(山ヘンにツクリ角)中々筆状すべきところにあらず。
扨、是より吉野 にそうて下ること四りにして 半田町 三好郡に有。人家三百余軒。商戸、農家入接、烟草を多く刻、諸国へうり出す也。土地、田少く、畑多し。麻、烟葉を多く産す。此処より並て少し上に
といへる処有。是より吉野川を渡り、半り斗坂道を上りて、山の端道しばし行て 猿飼村 に到る。此処 また山のこゝかしこに家居して、田なく畑斗也。烟葉斗也。人家は凡三、四十軒斗も有やうに思わる。是よりしばし谷に添て上り、道より下に、
怒竈 といへる処有。此処両岸より巨岩差出たり。其かたち竈のごとき処に、上の方より落くる水此間に入る。其音、法螺の音のごとし。其両岸緑樹陰森として其物寂しきこと云わんかたなし。また是よりして、谷川添桟道又は懸崖を行こと凡二十丁斗にして、
鳴滝 と云に到る。是また次に図するごとし。其高数十丈の岩面に幅は一丈余、高凡十(丈)余なるが、七段になりて落るなり。故、土人は是を七段滝と云り。此一丁斗も近き辺りに行や、沫泡、衣を浸して、甚物寂しき処也。此滝の下にまた石有。此上を飛行に其上段は其影の上にも落かゝるやうに覚へて頗る物すごし。越て、十五、六丁斗にして、
市中村 人家五、六十軒。山のこゝかしこに人居す。田無、畑斗にして平日の食は麦のみを用ゆ。又楢の木、橿の木の実を多く水にひたし置用ゆ。衣頼は皆麻を用ゆ。此辺りに南源内と申強力の人の家孫有しとかや。谷に添て行こと二り斗。此間谷の両岸にこゝかしこ人家在。しばし行てより剣山の裏山に上るに、九折、凡[脱]百丁斗道無如き処、又は険桟を行て、
見残し といへる方に出る。此処篭堂一宇有。此処には六月十六日夜より十八日迄 祖谷村 なる 円福寺といへる寺より僧到りて相詰、其十六日の夜は、村々の先達共皆是に到りて、終夜念仏を唱えて相つむる也。又十八日過れば、十九日には早々下る也。余は箸蔵寺より辻村に出て、十五日猿飼村に止宿し、十六日に此処に来り篭りたり。毎年ともに漸此三日のみ参詣を免るし、其余はかたく登山を禁ずる也。
祖谷山と云は美馬郡に有。則、此剣山の西に当り、予州の境に当る。四国第一番の辺鄙也。余は此村には到らず。土俗の説を聞に、此村に 安徳天皇の潜幸ましませし旧蹟といへるもの有りと。則、此処にて文治二年正月元日に崩御ましませしと。然れども帝の崩御の日と世に伝ふは、寿永四年三月二十四日と伝ふ也。又辺りの旧家に帝の旗なりと云ものを一流持伝ふ。其旗の中に八まん大菩薩、左りに厳島大明神、右に上二字は不分とも下に大明神の三字ほのかに見えたるものを伝えたり。然れども、其色紅きこと少しも今は無しと云へり。
又此辺りに門脇宰相国盛卿の玄孫といへるものも有よし。是は則、門脇中納言教盛卿の二男なりとぞ。又三好郡貞広村に帝の陵なりしと云もの有。今は祠を建て若宮大明神と称ふ。また幸(サイ)の神とも称ふ也。また祖谷山なる円福寺は、古しえ神爾(ママ)(璽)寺と号しとかや。近世円福寺と改めしよし等申伝ふ。此寺の過去帳に神爾(ママ)(璽)和尚と云名有りしと云伝えしが、余は市中より直に見残しに上りしかば此寺を残せしぞ遺恨なりけり。
扨、 是よりまた朝早く、恐らく未だ十七日の朝、月夜かたぶき、しばしと思ふ頃より、皆飯食、また麦粉等を食して、上ること三十丁斗の間は九折甚難儀なりしが、其より平山のやうになりて道も大にらくになりけれども、只一ヶ年に只三日のみの事なれば、あるか無かの熊笹原をわけて行に、凡四十丁斗と思ふ頃は樹木とても無、只熊笹のみにして四方の眺望もよろし。是を行こと半り斗にして此道すじを裏山と云也。
剣山大権現

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挿絵
07七段滝.JPG

08裏山.JPG

付録 金毘羅町・箸蔵裏 [『四国遍路道中雑誌』]

  付 録
金毘羅町 を西に出て、谷川に添て行こと凡四り半斗の間は、両岸小村多く農家、樵戸たえまなく打つゞきて住り。是より坂を上ること一り斗にして峠に到り、こゝに 標柱 有。是阿州三好郡、讃州那加(ママ)(珂)郡の境なるべし。此処より西北を望めば、谷間伝ひに讃州を見、東南を見る時は、阿州三好郡を眺望し、吉野川白波を湛えて、其美いわんかたなし。此川の向には、剣(注)山、祖谷、市中の山々、波涛を捲来るがごとく、其奇、中々紙筆につくしがたし。此峠づたひ半り斗行て、人家こゝかしこを隣となして住り。是を
箸蔵村 と云り。三好郡なり。人家二十余軒。田少しもなく畑のみにして傍ら木地を挽、また木履を作り、其平日の食とする処は稗、粟、芋、甘薯、馬鈴芋、其余橿の実、楢の木の実、七葉樹の実を谷川に瀑(ママ)(曝)し用ゆ。其食、海内無比の悪食とも云なるべし。然れども、藍其外木地等にて産物多きが故に人家何れも富り。また其処にて耕出せる大麦は、平日の食にあてづ(ママ)(ず)。却て他邦に売出す。是を以て其万事を見るべし。又此辺りより市町に出でて、売もの買ものをするには、皆讃州に出ること也。又此村より二十八丁下り、吉野川の辺りに至れば、皆土人半田市、別市へ出て売買す。其持行品を見るに、烟葉を多く持行けり。
又士人の常に服するものは麻にて織しもののみ也。土地麻を多く産すれども、其品到て悪し。又男女の風俗は金毘羅の市に近きが故に到て風俗よろしく見ゆ。二十八丁坂を下りて、川辺に到れば風俗又野鄙なり。扨、村を行ことしばしにして、すぐに金毘羅山の奥院といへる、
神護山箸蔵寺 に到る。此寺近頃焼失致して仮堂なりしが、土地樹木多きが故に随分大寺也。本堂。本尊薬 師如来。弘法大師御作にして脇立並に十二神は後世添しものなりと。未だ焼失後なりしかば護摩堂並大師堂も 皆本堂中に相殿とす。 扨、此寺を金毘羅の奥院と云伝ふもの如何なるゆえんぞ。聊か因を聞ことなし。土人云伝ふ。讃州金毘羅の日々の御供に用る処の箸、皆此寺の奥院窟に来るよし伝ふ。然れども、其説如何にも審(ママ)(訝)敷ぞ覚けり。又近年のことなりと。二月、三月、六月、十月十日、金毘羅の祭後十二日に、此寺祭礼をなして世間より参詣、群集をなす。余も六月十日、金毘羅の祭より十一日に此村に到り、止宿して十二日に此寺に到りしが道俗群集したり。 寺より不浄除の守を出す。是を頭にはさみて、本堂の前なる谷に添て下るに、谷の流なる左右に石像の十二神有。是を拝するを十二禅定と号。下ること凡七、八丁にして谷に三丈斗の鉄鎖を懸たり。是にすがりて下ること又六、七丁にして、
遥拝所


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挿絵
05箸蔵寺.JPG

06怒竃.JPG

七十七番桑多山明王院道隆寺 [『四国遍路道中雑誌』]

七十七番桑多山明王院道隆寺 従金倉寺一り。多度郡加茂村に在る也。本尊は薬師如来。座像。御長二尺五寸。大師、桑の木をもて小像を作り、此腹中に納め給ひしとかや。其後、元明天皇の時といへども、時代甚相違せり。なれども苾蒭の説まゝをしるし置ぬ。境内 大師堂、 並に 鎮守社 有なり。其余小祠、小堂等多し。
詠 願をば仏道際(ママ)(隆)に入はてゝ菩提の月を見まくほしさに
打ぬけ、是より丸亀へ半り余にして、道場寺へ行によろし。則、初巻に道場寺のことはくわしく書たれば、此処にて筆を留むるものなり。然れども丸亀までの道をしるすに、出て 中津村 川有。歩行渡り。洪水の節は船渡し有。 塩合村 此村に浄土宗の御堂有。過て 櫂堀光明庵 等のことは前にしるす故しるさず。しばし畑道を過てより 丸亀 へ到りぬる也。 南無大師遍照金剛〳〵と筆留ぬ者也。実に四国の霊場、我らが禿筆にしるすも恐多けれ共、是も兎に角霊験を感ずるの多きまゝしるし、一度流覧し給ふ人にも一蓮託生と希ことしかり。


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七十七番桑多山明王院道隆寺の位置 香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3番30号



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